2019年10月31日木曜日

★奥の細道紀行 第145章 山形県最上町と尾花沢市の間「山刀伐(なたぎり)峠」

奥の細道》《(封人の家の)あるじの云、是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟(くっきょう)の若者、反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必(かならず)あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじ の云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端(うんたん)につちふる心地して、篠(しの)の中踏分踏分(踏み分け踏み分け)、水をわたり岩に蹶(つまづい)て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、「此みち必不用(ぶよう)の事有。恙(つつが)なうをくり(送り)まいらせて仕合(幸せ)したり」と、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とヾろくのみ也。》



曾良随行日記』『十七日 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ肴シ置也。サヽ森 、三リ、市野ゝ。小国ト云へカゝレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出。堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野 ゝ五六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風へ着一宿ス。』
〇曾良随行日記の「境田より案内者に荷持たせ越える也」に照らすと、奥の細道(芭蕉)の屈強の若者の部分の文章はいかにも仰々しい。旧道の峠道を頂上まで行ってみたが、芭蕉が言うほどの凄味はない。ここでも文学者芭蕉は劇的創作・脚色をしているのだろう
↓最上町からの車道登り口は残雪で通行止め
↓尾花沢からの登り口に回る。右の舗装道は車道(新道)
↓こちらが旧道(車道の左側山裾)
↓車道の峠に到着


〇車を乗り捨てて、なたぎり峠の旧道登り口に入る




〇旧道の峠に到着
↓「山刀伐峠 元禄2年5月17日(新暦7月3日)芭蕉と曾良が越えた山刀伐の頂上がこの辺りであった。往時は原生林が山を覆い、馬の交易や出羽三山参詣の道筋でもあった。
山刀伐峠‥標高470mで北側が急で南側が緩やかな地形が漁師や農民がかぶる「ナタギリ」に似ていることから山刀伐峠と呼ばれるようになったといわれる。
峠の地蔵‥舟形(ふながた)の猿羽根(さるばね)地蔵と兄弟といわれる「子宝地蔵」として信仰が厚く、旧3月、7月の24日が縁日とされている。
子持ち杉‥地蔵堂の傍らに立つ老杉は、幹からひこばえのように枝を伸ばし、村人に「子持ち杉」と呼ばれ、神霊の宿る木と信仰されている。 尾花沢市・最上町」
↓展望台
〇「峠の地蔵(子宝地蔵)」と「子持ち杉」



↓子持ち杉






↓峠の地蔵


↓「奥の細道乃刀伐峠」石碑


↓旧峠道

↓道が見えない
↓最上町方面から登ってくる道はこの森の中にある
↓この崖を登って来る
↓崖を登る旧道。ヘアピンになっている



★奥の細道紀行 第144章 山形県新庄市境田「封人(ほうじん)の家」

奥の細道》《大山をのぼつて、日既に暮ければ、封人(ほうじんの家を見かけて、舎(やどり)を求む。三日、風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
(のみ)(しらみ馬の尿(しと)する枕もと 》
曾良随行日記』 『(五月)十五日 ‥‥。〇堺田(村山郡小田嶋庄小国之内)。出羽新庄領也。中山(中山峠、陸前・羽前の境界)より入口五六丁先ニ堺杭有り。
〇十六日 堺田ニ滞留。大雨、宿‥‥。
〇十七日 快晴。堺田ヲ立つ‥‥』
〇芭蕉は堺田の封人の家に三日間逗留したことにしているが、曾良の日記によれば滞留は二日間だったことが分る。芭蕉はここでも(些細なことだが)微妙に文学的脚色をしている。三日と二日では語感・イメージ(風雨荒れてよしなき山中に逗留した苦難の度合い)が違う。
封人の家。旧「有路(ありじ)家住宅」・重要文化財


↓裏側
↓「‥‥この住宅は創建後300年以上は経っていると推定されており、江戸時代には、新庄領上小国郷堺田村の世襲庄屋・有路家の住宅兼役屋(当時の村役場)であつた。‥‥3つの内馬屋と広い内庭などが、庄屋役の外に問屋と旅宿の機能も兼ね、熱心な馬産家でもあった有路家の歴史上の多様な役割を物語っている。ちうしょうの「封人の家」とは、国境を守る役人の家という意味であるが、この名称は俳聖松尾芭蕉の『奥の細道』に由来する。元禄2年(1689)5月15日、門人の曾良を伴い仙台領を抜けた芭蕉は、その夕暮れ時に堺田村にたどりついた。芭蕉師弟は、梅雨時の風雨のために、その晩から2泊3日にわたって「封人の家」に逗留した。そのゆかりの宿がこの住宅である。芭蕉は「封人の家」に滞在中、「蚤虱馬の尿する枕もと」という句を詠んだ。この句には、この住宅の構造そのものと、かつて馬産地であった最上町の歴史的地域性が読み込まれている。」
 ↓入口横に、芭蕉と曾良の木像が立って迎えくれた。
↓広い土間・内庭
 ↓馬屋が家の中にある。物置になっている所も元は馬屋だったらしい。馬屋は3つあった。
















 ↓芭蕉句碑
 《蚤虱馬の尿する枕もと  芭蕉翁》

★奥の細道紀行 第143章 宮城県大崎市「尿前(しとまえ)の関」

↓国道47号線を登っていたら「おくのほそ道・尿前の関跡」の案内表示を発見。急ブレーキをかけて路肩のPに停止。
 ↓関跡へ下りて行く。急坂。




 ↓右碑「出羽街道・中山越」、左碑「史跡・出羽仙台街道中山越」
 ↓「おくのほそ道・封人の家 10km」
 ↓出羽仙台街道(羽後街道・北羽前街道、鳴子温泉の先で羽後行きと羽前行きに街道が分岐する。追分)
 「奥羽山脈中の最低部を切り開いて造られた、多賀城より出羽柵への最短の街道。元慶の乱(878)の後、出羽と陸奥の境目にあり、軍事上の要所である尿前に岩手の関が設けられ、寛文10年(1670)改めて、尿前境目番所を設け、往来を厳しく取締った。元和年中(1615~23)国境から岩出山までに、尿前・鍛冶谷沢・下宮・岩出山の4駅が置かれ、後さらに中山の宿にも駅が置かれた。元禄の仙台領絵図に「鳴子村より境まで難所、10月より3月まで積雪、馬足不叶(かなわず)」とあり、ここより尿前までは難所続きで、元禄2年(1689)松尾芭蕉が曾良と共にこの街道を難儀して境田に向っている。‥‥」
 尿前の関の門前に着く
奥の細道》《小黒崎・みづの小島を過ぎて、なるご(鳴子)の湯より尿前の関にかゝりて出羽の国越えんとす。此の路、旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて(★註1)、漸(やうやう)として関を越す。
★註1『曾良随行日記』にも対応する記事がある。under line 部分
曾良随行日記』 『‥‥。壱リ(里)尿前シトマヘゝ取付く左の方、川向ニ鳴子ノ湯有り(★註2)。沢子ノ御湯成ト云う。仙台の説也。関所有り。断(ことわり)六ヶ敷(むつかしき)也。出手形(でてがた。入手形と対)ノ用意可ㇾ有ㇾ之(これ有るべき)也壱リ半 、中山。
★註2 鳴子温泉の西約2kmに尿前の関があった
↓門柱に「尿前の関」
 ↓関所の中




 ↓昔の関所の中
 ↓芭蕉翁像と芭蕉句碑






 ↓奥の細道・尿前の章段が刻字され、《蚤虱馬の尿する枕もと》の句が最後に刻まれている。
 〇鳴子温泉、尿前の関には義経・弁慶伝説が残っている。