2015年11月30日月曜日

〇11/22(日)闇夜のカラスの「知立(ちりゅう)神社」 重文・多宝塔

〇知立市の「知立神社」に辿り着いた時はもうすっかり暮れてしまっていた。闇夜の中を手探りで多宝塔を探訪した。何とか多宝塔に辿り着いたが、新しいカメラのフラッシュ機能が使えずじまいで撮影には大失敗。境内公園の方に「芭蕉句碑」もあったそうだが、どれが句碑やら特定できずに残念無念。文化財探訪に懸けるボクの執念から見ていずれ再訪するだろう。
 ↓多宝塔・重文 多宝塔は仏教寺院にあるべきモノ(真言宗に多い)。神社にあるのは理に合わないように思える。が、明治維新までは普通だった。神仏分離・廃仏毀釈が叫ばれるまでは、神仏は混淆し習合していた。神宮寺という別当寺が普通にあった。知立神社もその昔は神仏習合していた。この多宝塔も明治維新時、叩き売られて薪にでもなるべき運命だったろうが、文化財を愛好する識者が理屈をつけて神社境内にそのまま残せるように図ったに違いない。内部の仏教関係のモノをすべて撤去して神道色に衣替えして。


 拝殿
〇今日一日で滋賀県・教林坊を振出しに岐阜県・愛知県を駆けて知立神社で六か所を巡った。知立神社で晩秋の早い日が落ちてしまった。近くの道の駅で泊ることも考えたが、疲れたので一気に能登の七尾の自宅まで帰り、布団の中でヌクヌクとしてYOU TUBEを見ながら寝た。三連休の三日目は自宅でゴロゴロしていた。

〇11/22(日)名古屋市「興正寺」 大寺、金満そう

〇名古屋市昭和区所在の興正寺に辿り着いた時はもう夕暮れが迫っていた。重文・五重塔は確かに堂々と建っていた。が、ボクの気を塞がせたのはいかにも金をかけたというその境内の有様。投資された金は莫大だろう。それに見合った利益も上げているだろう。そう言えば天台宗門からの離脱騒動を惹き起こしたのはここ興正寺だった。きっかけは、寺で上げる通夜にお経も分らぬアルバイト生を出して勤めさせていたこと。それがバレて住職解任・宗門離脱騒動に発展した。一体どういう解決に至ったのかボクは知らぬ。が、来てみてさもありなんという感じはした。宗教を金儲けの種にしたらいかん(-_-メ)
 ↓参道。中央に中門、背後に五重塔
 ↓中門と五重塔

 ↓重文・五重塔。真ん前に大仏が坐っている。



 ↑この五重塔は文化五年(1808)に建立されたという。
↓円照堂





 ↓本堂
 ↓本堂背後の普門園
 ↓普門園の入園料は高い
 ↓観音堂

 ↓能満堂。エスカレーターで昇る。

〇この外にも護摩堂・東山本堂、開山堂等の堂宇があるようだったが、ボクは夕暮れの中をそれら全部を探訪する意欲を失った。ボクは文化財探訪の旅をしているのだ。
もう一つ文化財探訪の仕事が残っていた。知立神社の重文・多宝塔。しかし辿り着いた時には宵闇の中で何も見えないだろう。が、それでも訪れる。

2015年11月27日金曜日

〇11/22(日)愛知県一宮市「妙興寺」 知られざる大寺名刹

〇岐阜市北郊の大龍寺でその俗っぽさに辟易させられた後だけに、一宮市街地の中で鬱蒼とした広大な森に包まれることになったこと、そしてその中で想定外の大寺・古刹に巡り会えたことは望外の喜び、というより一種の感動だった。
↑「史蹟・妙興寺境内地 境内は鬱蒼とした樹林に包まれ、勅使門・竜王池・三門・仏殿が、南北に一直線に並ぶ。総門をやや東側に寄せたのは、鎌倉時代の禅宗伽藍配置の特徴である。「尾張に杉田(過ぎた)の妙興寺」として崇められ親しまれる。塔頭には‥‥。臨済禅の修行の場として、近年、特に雲水による境内の清掃が行き届き、清々しさと厳しさを覚える。」
総門


↓重文・勅使門
「‥‥。当門は1353年、後光厳天皇より賜った勅額「国中無双禅刹」をもっており、創建当初来の遺構として唯一のものである。‥‥。」


↓「勅賜・国中無双禅刹」の額
↓勅使門・側面




↓勅使門・内側
↓竜王池から勅使門を見る。
↓三門。普通寺院の正門は「山門」というが、禅宗寺院では「三門」ということが多い。




↓塔頭寺院の一つ「清寥院」入口。
三門から仏殿を見る。
仏殿


↓三十三観音石像から仏殿を見る。
↓仏殿から三門を見る。
仏殿
↓塔頭寺院の一つ「東薫院」入口。








↓多分、塔頭寺院の門
↓鐘楼が白く見える。
↓セレナ君が停まっている。
↓鐘楼
↓庫裏・方丈通用門。右に「妙興専門道場」、左に「臨済録提唱」と書いてある。
↓門内に入る。式台(格式高い玄関)
庫裏
方丈・書院
↓多分勅使門
↓正門