2020年2月22日土曜日

〇兄の死顔

〇「奥の細道紀行」を完結した日(2020.2.21 Fri)、兄が死んだ。急逝。享年79歳。駆けつけてみると、その死顔はまるで眠っているかのよう。安らかで、優しくて、美しくて老人臭さがなかった。兄は決して生きるのが上手な人ではなかった。耐えて忍んで生き抜いたに違いない。それでいて立派に業績を残し、何よりも慈しみ深い妻と逢うことができ、可愛い二人の娘に恵まれ、それは可愛らしい六人の孫に囲まれた人生でもあった。きっと苦悩が多かっただろう人生をとにかく無事に安らかに終えたのは、一大事業の成就に等しい。ボクは、その死顔に向かって「ご苦労様でした」と声を掛けた。枕元に奥さんが坐っていた。この人あればこその兄の安らかな最期。ボクは彼女に対しても「ご苦労様でした」と声にした。兄が妻宛に残していったという文章を読んだ。それは人の書いた言葉というより、天から降り注いだ珠玉の宝石箱。神の愛の啓示とはこのようなものだろうか。兄は最期に、神の愛に包まれた安らかな死を示して逝った。さようなら、永遠に。兄とその妻はキリスト教徒。ボクは、余生を自分らしく生き抜いて、最期にその自分に対してご苦労様でしたと言って死ねる、そういうものに私はなりたい。

2020年2月21日金曜日

★奥の細道紀行 第298章 大垣市船町正覚寺「芭蕉木因(ぼくいん)遺跡」

〇ここが正覚寺の入口。そうは見えない。が、「史蹟・芭蕉木因遺跡」の石碑がある

↓「当境有芭蕉翁碑」
↓「芭蕉・木因遺跡 俳友谷木因と数多くの門人が大垣に居たため、俳聖松尾芭蕉の美濃来遊は四回ありました。木因は、名を正保、九太夫、号を木因と称しました。船町の船問屋の家に生まれ、北村季吟の門に入って俳諧を学びました。芭蕉とは同門であったので壮年から交わりが深く、貞享、元禄年間に大垣俳人の先駆をなしました。元禄七年(1694)芭蕉が大坂で病没すると、芭蕉の門人であった近藤如行らは、船町正覚寺に芭蕉の百ヵ日忌を記念して芭蕉塚を築き、追悼の意を表しました。その後、同寺には谷木因の墓をはじめ、美濃派歴代宗匠の句碑などが建立されました」
↓芭蕉・木因遺跡。左端に木因の墓がある。中央やや右側に芭蕉翁碑がある。
↓遺跡の向かいに建つ本堂
↓「俳聖松尾芭蕉の大垣来遊(4回)は、俳友谷木因(たにぼくいん)をはじめとした大垣俳人を訪ねてのことである。木因は芭蕉と同門で北村季吟から俳諧を学んだ。そのため、芭蕉との親交が深く、大垣藩士近藤如行(じょこう)ら多くの俳人を芭蕉門下とした。元禄7年(1694)芭蕉が大阪にて病没すると如行らはこれを深く悼み、正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。さらに、木因の死後芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑を建て「芭蕉・木因遺跡」とした」
↓木因墓

↓中央に芭蕉翁碑
↓「芭蕉翁」碑

↓以下、門人の句碑
↑↓「安永五歳」建立







↑↓「寛政十二」建立


↑↓「安政六年」建立
その他は明治以降の建立
↓本堂から見た遺跡

★奥の細道紀行 第297章 大垣市「大団円むすびの地」

《奥の細道》 《露通(路通の誤記)も此みなと(敦賀湊)まで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人(越智越人・えつじん)も馬をとばせて、如行(近藤如行・じょこう)が家に入集る。前川子(津田前川・ぜんせん)荊口(宮崎荊口・けいこう)父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のもの(芭蕉自身を指す)にあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて 
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ 》
〇大団円結びの地・大垣にとうとう着いた。
「奥の細道むすびの地記念碑」
↓「奥の細道むすびの地 「蛤のふたみに別行秋ぞ」 俳聖松尾芭蕉がこの地で詠んだ俳諧紀行「奥の細道」のむすびの句です。 元禄二年(1869)三月二十七日、江戸深川を出発した芭蕉は、門人曾良とともに奥州から北陸を経て、ここ大垣で「奥の細道」の旅を終えました。九月六日には、俳友の谷木因や近藤如行ら大垣の俳人たちに見送られ、伊勢神宮の遷宮参拝のため、この船町港から桑名へ舟で下りました。
 谷木因俳句道標 ‥‥」
↓水門川
↓「史蹟・奥の細道むすびの地」

↓「大垣船町川湊」 芭蕉が伊勢に旅立ったのはここかららしい。
桑名行きの舟が出ていた
↓ 左・芭蕉翁、右・木因翁の銅像


↓ 芭蕉像
 ↓ 木因像 芭蕉は生涯大垣に四、五回来ている。それは木因が居ればこそ、木因が芭蕉に付けた弟子・門人が居ればこそ。
 ↓「芭蕉翁と木因翁」

↓左・木因句碑、右・芭蕉句碑(蛤塚)
↓ 木因白桜塚 「惜むひげ剃たり窓に夏木立 白桜下木因」
↓ 蛤塚 「い勢にまかりけるをひとの送りければ
蛤のふたみに別行秋ぞ  はせを 」

↓住吉神社
↓住吉灯篭


  
↓大垣・奥の細道むすびの地記念館


 ↓水門川上流
  ↓「南・いせ(伊勢)‥‥」
 ↓水門川下流方面。南。芭蕉はこの川湊から舟に乗り桑名を目指し伊勢神宮の式年遷宮参拝に向かった。

★奥の細道紀行 第296章 長浜市「春照(すいじょう)宿」(芭蕉一宿の地)

〇敦賀から木之本宿を通り、春照(すいじょう)宿に来た。わざわざ何故こんな今は忘れ去られた北国脇街道の旧宿場に来たかと云うと、芭蕉の奥の細道のルートの探索のため。芭蕉は加賀の山中温泉で曾良と別れた後、山中から越前松岡までは金沢の門人・北枝、福井から敦賀までは福井の門人・等栽との二人旅となった。そのため、曾良随行日記は曾良の先行単独行のメモとなり、山中以降の芭蕉の詳細正確な足取りは不明となった。特に敦賀から大垣の間は分らない。奥の細道の研究者の推測では、敦賀の次に木之本で一泊し、さらに春照宿で一泊して大垣に辿り着いたとされている。それでボクも木之本宿を訪ねて、次に春照宿を探訪したというわけ。木之本・大垣間は、この逆コースで暗闇の中を半日で駆け抜けた軍隊がある。賤ヶ岳へ急行した秀吉軍である。春照宿に一泊しなくとも大垣まで直行することは可能だろうが、老人の足には少々無理があると考えるのが相当だろう。春照宿はすっかり寂れているうえ現代の国道筋から大きく外れて取り残されているので発見が難しい。
北国脇往還略図 木之本宿(北国街道から分かれて)→小谷宿→春照宿→藤川宿→玉宿→関ケ原宿(ここから中山道に入る)
 ↓「北国脇往還春照宿今昔」




 ↓「左・ながはまゑ」
 ↓「右・北国・きのもと・ゑちせん(越前)へ」
 ↓伊吹山が近い
〇春照で博物展示館に入った。奥の細道関連のものはなかった