2019年6月28日金曜日

★奥の細道紀行 第36章 遊行柳

温泉神社・殺生石から歌枕「遊行柳」を目指した。峠を二つ三つと越える山道。芭蕉と曾良もこの峠越えの道には往生したよう。
曾良随行日記》『(4)20日 ‥辰下剋(午前9時前)、湯本を立つ。‥‥湯本より総て山道にて能不ㇾ知して難ㇾ通(よく知らずして通り難し)‥‥』『芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ (十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)、八幡ノ大門通リ之内、左ノ方ニ遊行柳
中央上やや左の「現在地」が史蹟「遊行柳」(∴印が付いている)。芦野と云う所。右下が白河の関。
奥の細道》《又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。此(この)所の郡守、戸部(こほう)某(なにがし)の、「此柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。》
田一枚植て立去る柳かな
蘆野の里。この遊行庵の裏手に「遊行柳」がある。
田の中に遊行柳がある。

遊行柳

西行 道のべに清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ》(新古今集、山家集)
芭蕉はこの西行の歌枕に惹かれてこの地を訪れた。
芭蕉句碑
田一枚 うゑてたち去る柳かな 芭蕉》


↓何代目かの遊行柳

根元を囲われたこちらの柳の方が古いそう。
遊行柳を通り過ぎて山手に行くと上の宮がある。古木が立ち並ぶ。中でもこのイチョウの木が立派。樹齢400年だそう。


2019年6月27日木曜日

★奥の細道紀行 第35章 殺生石 (せっしょういし)

奥の細道》《‥‥殺生石は温泉(いでゆ)の出(いず)る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど、かさなり死す。》
曾良随行日記』『(四月)十九日 ‥‥‥(湯元温泉神社で)与一の扇の的射残しの矢などを拝む。それより殺生石を見る。宿の五左衛門案内す。‥‥‥殺生石 石の香や夏草赤く露あつし‥‥』
「温泉神社」の奥に「殺生石」がある。殺生石の背後に那須岳が聳えているが、見えない。温泉神社の前面に湯本温泉等の那須温泉郷が広がっている。殺生石は那須温泉の泉源の如き位置にある。
整備された駐車場から見た殺生石。



  ↓お地蔵さんが無数に並んでいる。教伝地獄の始まり。
 ここのお地蔵さんの特徴。①手がドデカイ、②数珠もでかい。

 ↓教伝地獄。不良少年が親の跡を継いで僧になった。名は教伝。が、素行は改まらず悪僧だった。ある日思い立って殺生石見物に来た。そしてここで火炎熱湯の吹き出しに遭い命を落とした。その地に湯本温泉の有志が供養のため地蔵尊を祀った、その跡がこれ。

 ↓赤とんぼ。ピンピン生きている。芭蕉の時代から見たら毒気が弱まったか。

赤とんぼが無数に飛び回っていた。石に止まっているのだけを写してみた。どこが殺生石だと言いたくなる。餌の小虫も沢山生息しているはずだから。

 ↓行き止まり
 ↓殺生石
 ↓殺生石の由来「昔、中国やインドで美しい女性に化けて悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が今から800年程前日本に渡来しました。九尾の狐は「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え、日本国を亡ぼそうとしていました。しかし陰陽師阿部泰成に正体を見破られると、九尾の狐は那須野が原まで逃げてきました。ここでも九尾の狐は悪さを繰り返していたので、朝廷は三浦の介、上総の介の両名に命じ遂に九尾の狐を退治しました。すると九尾の狐の姿は毒石になり毒気を放ち始め、近づく人や獣を殺し続けました。これを伝え聞いた泉渓寺の源翁和尚が毒石に向かって大乗経をあげ続けると、一筋の白煙とともに玉藻の前の姿が現れ、石は三つに割れて飛び散り、一つがここに残りました。それ以来、人々はこの石を殺生石と呼ぶようになり、今に伝えられています。」
 ↓芭蕉句碑  『飛ぶものは雲ばかりなり石の上』
この句は、芭蕉の孫弟子の作で、ここで芭蕉が詠んだ句は《石の香や夏草あかく露あつし》だという説が有力。何といっても『曾良随行日記』に「殺生石」に続けて《石の香や夏草赤く露あつし》と記されている。
 ↓湯の花を採っていた跡。今は採っていない。



★奥の細道紀行 第34章 湯元温泉神社

曾良随行日記』『(四月)十九日 快晴 。‥‥午ノ上尅(午前11時半頃)湯泉ヘ参詣。神主の越中が出合い、宝物ヲ拝す。(那須の)与一の扇ノ的躬(射)残しノカブラ壱本・征矢十本・蟇目(ひきめ)ノカブラ(蕪矢)壱本・檜扇子壱本[註(1)]、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。‥‥‥温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ、雨(両 の誤記か)神一方ニ拝レセ玉()フヲ、
   湯をむすぶ誓も同じ石清水   翁
  殺生石
   石の香や夏草赤く露あつし
‥‥‥。
[註(1)]那須与一ゆかりの矢などが宝物として奉納されていることから、与一が四国屋島の浜辺で扇の的に向かい南無八幡と誓って矢を射たのはこの神社の神に対してだったとの説が有力。
〇温泉神社は殺生石の入口にある小高い岡の上にある。
一の鳥居
二の鳥居
綺麗な百合の花を発見
 三の鳥居が見えてきた

ミズナラの巨木。樹齢800年と推定されている。
拝殿が見えてきた
拝殿
本殿 祭神①オオナムチノミコト(大国主命)・②スクナヒコナノミコト、相殿③ホンダワケノミコト(京都石清水八幡神を分祀)
芭蕉句碑


湯をむすぶ誓(ちかい)もおなじ石清水
石清水八幡宮の祭神(ホンダワケノミコト)も相殿で併祀されていることからここで神に誓えば温泉神社と石清水八幡宮の両神に誓ったことになると詠んだらしい。『曾良随行日記』の一文。「温泉大明神の相殿に(石清水)八幡宮を移し奉りて、両神一方に拝れ(拝まれ)せ玉う(せ給う)を 湯をむすぶ誓も同じ石清水」とある。

★奥の細道紀行 第33章《野を横に馬牽きむけよほとゝぎす》

奥の細道》《是れ(那須黒羽)より殺生石に行く。館代より馬にて送らる。此の口付(くちづき)のおのこ(男)、短冊(たんじゃく)得させよと乞ふ。やさしき事を望み侍るものかなと、
野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす  
この場面、少女かさねちゃんが芭蕉の乗った馬の後を走って追って来る微笑ましい場面と並んでボクが好きな情景。つい心が和む。さらさらと短冊に一句認(したた)めて轡を取る男に手渡してやる芭蕉も優しい。この短冊、今も残っていれば時価500万円は下るまい。ところでこの馬の口付の男の素性だが、単なる匹夫でないことはその口にした要望の文化的香りからして分る。《奥の細道》に「館代より馬にて送らる。此の口付のおのこ」と書かれているのだから館代浄法寺桃雪の家来だと推察される。
曾良随行日記》にはこのおのこ()の素性がはっきり書き留められている。『16日、‥‥翁(芭蕉)、館(桃雪邸)より余瀬(翠桃邸)へ立ち越される(曾良は翠桃邸に泊っていた)。即ち、同道にて余瀬を立つ(桃雪邸に戻った)。昼に及び、図書(桃雪)、弾蔵(たまぐら、武器庫か)より馬人(馬と人)を付けて送られる。馬は野間と云う所より戻す。‥高久に至る。雨降り出すにより、滞る。‥宿・角左衛門。
18日、‥‥午の剋(正午)、高久・角左衛門宿を立つ。‥‥馬1疋、松子村迄送る。‥‥未の下剋(午後3時前)、湯元・五左衛門方へ着く。
19日、‥予(曾良)、鉢に出る(托鉢か)。朝飯後、図書(桃雪)の家来角左衛門を黒羽へ戻す。午の上剋(午前11時半頃)、湯泉へ参詣。‥‥‥』
〇湯元に着いた翌朝、図書(桃雪)の家来角左衛門を黒羽へ戻している。湯元まで付いてきたこの「図書(桃雪)の家来角左衛門」こそ芭蕉に短冊得させよと乞うたおのこ()なのである。桃雪が付けてくれた馬の方は高久の手前の野間と云う所で既に戻している。その後宿場の馬次を利用している。

2019年6月26日水曜日

★奥の細道紀行 第32章 芭蕉の館・黒羽

↓芭蕉の広場入口。大田原市黒羽城址郭内にある。浄法寺桃雪邸のすぐ近く。
 ↓入口に建つ石碑。末尾に、
《夏山に足駄を拝む首途(かどで)
この句は、黒羽余瀬の修験光明寺で詠んだ句。


 ↓芭蕉の広場に入ると、いつの間にか「芭蕉の館」の入口に着いた。
↓「芭蕉の館」
 ↓芭蕉と曾良の旅姿。最高傑作。どうやら蕪村が二人を描いた水墨画をモチーフにしたらしい。この像に会えただけで、ここを訪れた甲斐があった。




★奥の細道紀行 第31章 ⑤那須与一

道の駅「那須与一の里」に建つ那須与一騎射像
 道の駅にある「与一伝承館」。有料
 屋島の合戦における那須与一の晴れ舞台の人形劇を見せてくれるが、なかなかの見もの。
曾良随行日記』14日、雨降り、図書(浄法寺桃雪)見まわれること終日。重之内(重箱の折詰)持参。
15日、雨止む。昼過ぎ、翁(芭蕉)と鹿助右(鹿子畑助右衛門翠桃)同道にて図書(桃雪)へ参られる(この夜は桃雪方で泊まる)。是は昨日約束の故也。予(曾良)は少々持病気故不参』