2020年1月31日金曜日

★奥の細道紀行 第247章 富山市東岩瀬「諏訪神社・大伴家持歌碑」

曾良随行日記』 『十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川(から)一リ(里)程来、渡テトヤマへ別(れる))、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計(ばかり))。 氷見へ欲行、不往。高岡へ出ル。』
〇芭蕉と曾良は滑川を発った後、常願寺川を渡り、神通川のほとりの東石瀬野に着いた。この後神通川を渡り、さらに庄川を渡って伏木に出て氷見に行くつもりだったが、伏木から行き先を変更して高岡に出て宿を取る。ボクがやって来たのは富山市東岩瀬の諏訪神社。ここに大伴家持の歌碑がある。ここ東岩瀬は、歌枕「イワセノ(石瀬野)」の地と同一かどうかは定かでないが、芭蕉がこの辺りにやって来て神通川の渡しに乗ったことは確かなので、芭蕉を偲んで諏訪神社・家持歌碑探訪記を残しておこう。
↓東岩瀬の諏訪神社一の鳥居。鳥居の右側手前に家持歌碑がある。

 ↓家持の歌碑

 『いわせのに秋萩しのぎ 馬並(な)めて 始鷹狩(はつとがり)だにせずや別れむ』 
 ↓二の鳥居
 ↓拝殿
 ↓神通川の河口右側に東岩瀬「諏訪神社」がある。

★奥の細道紀行 第246章 越中国三大河川(常願寺川、神通川、庄川)を渡る

奥の細道》《くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古(★註5)と云浦に出。担籠(たこ。氷見市)の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是より五里、いそ(磯)伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑(あま)の苫(とま)ぶ(葺)きかすかなれば、蘆(あし)の一夜の宿かすものあるまじ」とい(言)ひをど(脅)されて、かヾ(加賀)の国に入 。
曾良随行日記』『○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ(里)程来、渡テ(★註1)トヤマへ別)、三リ東石瀬野(渡シ有。大川(★註2))。四リ半、ハウ生子(★註4)(渡有。甚大川(★註3)也。半里計(ばかり))。 氷見へ欲行、不往。高岡へ出ル。‥‥
★註1 最初に渡った大河が常願寺川
★註2 次に渡った大河が神通川
★註3 最後に渡った大河が庄川
★註4 「ハウ生子」←これの解釈が難問だった。「はうしょうず」と読ませるのだろう。それなら「放生津(ほうしょうづ、ほっしょうず)八幡宮」を指すと見て間違いない。新湊の海王丸パークの近くに鎮座する。
★註5 那古の浦→有磯海・富山湾のこと。新湊、氷見方面に限定する見方もある
〇ハリアーで走って実測してみたら、常願寺川、神通川、庄川までのそれぞれの里程はほぼ合っていた。曾良随行日記の道程表示はほぼ正確であることが立証された。
〇曾良随行日記の文章を現代語に意訳すると、「七月十四日(西洋暦で8月28日)、快晴。暑気が酷い。富山に向わずに海岸線に沿って旧北国街道を辿る(滑川から一里程来ると常願寺川の渡しに着く。渡った所で富山に向う分岐点がある)。数々の越中の歌枕(奈呉の浦・田子の藤浪・二上山・岩瀬野等)を見たかったので。富山への分岐から三里で東岩瀬村に着く(ここに渡しが有る。大河であり名は神通川)。神通川を渡ってから四里半で新湊の放生津八幡宮に着く(l)4d新湊で渡しが有る。大変大きな川で川幅が半里(2km)ばかりもある。川の名は庄川)(★註:当時庄川と小矢部川の河口は合体していたらしい)。渡った所が伏木。ここから歌枕・田子の藤浪を見るため氷見へ行こうと思ったが、在地の人が氷見方面には粗末な漁師の苫屋がわずかに点在するだけでとても宿を貸してくれる家などないと脅かされたので心細くなり行かなかった。直接高岡に向うことになった。伏木から高岡の行程は二里だった。奈呉の浦・二上山・岩瀬野等の歌枕を見れた。高岡に午後四時前に着いて宿を取った。翁の気色は悪かった。暑気は本当に酷い。不「快★」同然である。(註;★印部分の文字は原文で判読不能とか)」
〇当時の1里は約4km(弱)だった。人が半刻(はんとき・1時間)で歩く距離がほぼ4km/時でその距離を1里としていた。

2020年1月30日木曜日

★奥の細道紀行 第245章 滑川市「徳城寺・芭蕉句碑」

↓「‥徳城寺は、北陸街道(今の県道1号線)沿いにありましたが、明治13年(1880)に現在地に移転してきました。‥翁を顕彰するために川瀬知十(芭蕉宿泊宿「川瀬屋」の主)らが建立した有磯塚があります。‥」
 ↓徳城寺山門


 ↓鐘楼
 ↓本堂
 ↓本堂前に仁王像が立つ
 〇有磯塚
 ↓芭蕉句碑。風化して刻字が判読できない。プラスチック板で保護されている。
 新しい句碑。《早稲の香やわけ入る右はありそ海
 ↓「有磯塚 早稲の香やわけ入る右はありそ海
  芭蕉 明和元甲申年十月十二日(1764年)
元禄2年(1689年)春「おくの細道」紀行に旅出た松尾芭蕉は門人曾良と共にみちのくから日本海側の越後を通り、旧暦七月十三日越中へ足を踏み入れ同夜は滑川で宿した。この句はこのころ詠まれたものであろう。翁の七十回忌に、滑川俳壇を代表する川瀬知十らが句碑の建立を思い立ち、有磯の浜の砂を手でさらえ、荒波かかる自然石を荷い運んで地元ゆかりのこの秀吟を刻み古刹徳城禅寺境内に建立したものである。明治十三年徳城寺が荒町海岸から現在地に移ったとき、句碑も共に移転し今日に及んでいる。」

〇滑川市は、松尾芭蕉(奥の細道)を顕彰する精神の極めて旺盛な町である。

★奥の細道紀行 第244章 滑川市「櫟原神社末社金毘羅社の常夜灯」

〇↓「櫟原(いちはら)神社と神明町 もとは柳原村(現滑川市柳原)に所在したといわれ、延喜式内社の系譜を有する神社。江戸時代に遷座した。天明3年(1783)の『滑川惣絵図』は「神明社」と記されている。江戸初期に町の東端の社地に成立したのが神明町である。境内には、安政2年(1855)、滑川町の俳人亀田呉橋や石川東邱らによって建立された芭蕉句碑があり、「しばらくは花のうえなる月夜かな」の句が刻まれている。
【常夜灯】ここの常夜灯は、川瀬屋によって金毘羅社に寄進されたものといわれ、文化12(1815)の年号が刻まれている。本来、金毘羅社では船舶航行の安全を祈願するが、これは道しるべを兼ねた献灯施設として寄進されたものと思われる。」
 ↓櫟原(いちはら)神社・末社の琴比羅社
 ↓芭蕉が滑川宿で一泊した「川瀬屋」が寄進したと伝わる常夜灯。川瀬屋なる宿の実在感が増す言い伝え。

★奥の細道紀行 第243章 滑川市「櫟原(いちはら)神社・芭蕉句碑」

〇滑川市の海浜の道の駅「ウェーブパークなめりかわ」を元気一杯出発した。が、暑い。路面近くは40~50度はありそう。街の中心の櫟原(いちはら)神社に着いた時は既にグロッキー気味。
 男の子が二人、画板を広げて絵を描いていた。夏休みの宿題かい、と訊くと頷く。この猛暑日に風景写生の宿題に取り組むとはすこぶる感心。見ると定規を使って鳥居を描いていて感心しない。よっぽど手を出したかったが我慢した。




 〇池の傍に芭蕉句碑発見。


 〇『しばらくは花の上なる月夜かな
↓「この句は、松尾芭蕉が元禄4年(1691)に詠んだ句である。碑の裏面には‥‥と刻まれており、安政2年(1855)に如青ら四名が発起人となり建立したことが分る。‥‥」
〇櫟原神社境内に摂社金毘羅社がある。この摂社の常夜灯は「川瀬屋」(芭蕉と曾良が宿泊した宿と推測されている)が寄進したそう。文化12年(1815)の年号が刻まれている。

★奥の細道紀行 第242章 滑川市「芭蕉一宿の宿・川瀬屋」

奥の細道》 《くろべ四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云う浦に出ず》
越中国の道中の記述も、芭蕉は筆を惜しんでいる。
那古の浦は今の新湊市あたりの海岸線と思われる。
曾良随行日記』 『13日、市振立つ。‥(越)中・(越)後の堺、川有り。渡りて越中の方に越す。堺村と云う。‥‥
泊ニ到テ越中ノ名所少々覚者有。入善(にゅうぜん)ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黒部川ヲ越。(情報によると)雨ツヾク時ハ山ノ方へ廻ベシ。(山の方に)橋有。(橋まで)壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴(雨となり降りて晴れる)。申ノ下尅(さるのげこく。夏だから午後5時過ぎだろう)、滑 河(なめりかわ)ニ着。暑気甚シ。』 
〇越中国では滑川と高岡に泊まったことが曾良随行日記に記されている。
〇滑川にはほとんど情報を持たずに入り込んだので期待していなかったのだが、道の駅で案内嬢(細身のおばさん)に芭蕉句碑の存在の有無を尋ねたらパンフレットを片手に見事な観光案内をしてくれた。パンフレットには何と芭蕉が宿泊したという説がある「川瀬屋跡」まで記してあった。喜び勇んで滑川の旧市街を訪ねて句碑のある箇所と川瀬屋跡それにJR滑川駅前の「旧北国街道道しるべ」を全て探訪した。暑気が甚だしい日で熱中症になった。
↓県道1号線。これぞ旧北国街道だろう。
 ↓海岸線近くをそれに平行に走る県道1号線
 ↓防波堤・日本海を背に「川瀬屋跡」がある。小公園になっている。


 ↓右側の団子石「芭蕉翁・おくのほそ道宿泊のまち」
 ↓「芭蕉「奥の細道」と川瀬屋 
 元禄2年(1689)、松尾芭蕉と同行の曾良は、奥の細道の旅の途中、7月13日(新暦では8月27日)の夕方滑川に着き宿った。旅籠の川瀬屋という説が有力でこの辺りにあった。川瀬屋の主人は門人でもあった。宝暦13年(1763)に「俳諧早稲の道」を著した川瀬知十(ちじゅう)は翁の宿泊を祈念して自家の檀那寺である徳城寺の境内に「早稲の香や分け入る右は有磯海」の吟詠を刻んだ句碑を建立した。徳城寺は、この頃はまだ新(荒)町の海辺にあったが、明治13年(1880)に、句碑とも現在地に移転した。
【荒町の成立】 新町は、大町、瀬羽町に次いで、慶長年間に新しくできた町であったと伝えられる。海岸線に平行して東西に北国(北陸)街道が走り、その両側に家並みが連なり、浜に抜ける小路が発達した。」


 ↓川瀬屋跡の筋向いにある「荒町(新町)公民館」
〇以下、いずれも道の駅「ウェーブパークなめりかわ」で見つけた写真。
↓海岸中央に凹んでいる箇所が滑川漁港。その右側の街並が滑川市街地。背景の山は立山連峰。連峰中央の尖っているのが剣岳、その左が毛勝三山、右が立山。芭蕉と曾良が渡河した黒部48箇瀬は写っていない(ずっと左側)。剣岳を水源とする川は常願寺川(写真の右側外れに河口が開ける)。この海岸線を芭蕉と曾良が暑気と闘いながらとぼとぼと滑川の宿に辿り着いたかと思うと感慨ひとしお。
 ↓JR滑川駅南側出口から見える晩秋の風景だそう。山は剣岳。絵になっている。死ぬまでに必ず訪れて描こう。

2020年1月29日水曜日

★奥の細道紀行 第241章 富山県入善町「黒部川」

《奥の細道》 《くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古(なご)と云(う)浦に出。担籠(たこ、今氷見市に「田子」の地名あり)の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜の宿かすものあるまじ」といひ(言い)をど(脅)されて、かヾ(加賀)の国に入 。》
『曾良随行日記』 『‥‥入善(にゅうぜん)ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黒部川ヲ越。雨ツヾク時ハ山ノ方へ廻ベシ。(山の方に)橋有。(橋まで)壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴(雨となり降りて晴れる)。申ノ下尅(さるのげこく。夏だから午後5時過ぎだろう)、滑 河(なめりかわ)ニ着。暑気甚シ。』
〇芭蕉・曾良の記述に依れば、二人は橋を渡らず、徒歩若しくは舟で黒部扇状地の数知れぬ川瀬を渡ったことが推定される。
〇現在の黒部川は、芭蕉の頃と姿・趣を異にする。芭蕉の時代、黒部川は扇状地一帯に川筋が扇子を広げたときの骨の様に一杯に広がって流れていたろう。今は治水のため堤防でしっかり区切られ囲われた部分が黒部川であり、堤防の外の扇状地は全体が田園となり耕地整理されて水流は用水として設営管理されている。黒部48ヶ瀬の面影は全くない。
↓国道8号線の鉄橋に着いた。黒部大橋

 黒部大橋の袂
 河原
 黒部大橋
 〇黒部大橋(国道バイパス)の辺りは新開道路で、芭蕉が歩いた道とは程遠いと思われたので、芭蕉の道に近づくために日本海寄りの海岸線を目指した。着いたのがこの橋。ルートは県道2号線。これぞ芭蕉の歩いた旧北陸(北国)街道にほぼ相当すると思われた。


↓「下黒部橋」


 河原
  ↓旧JR北陸本線鉄橋
 ↓河口・日本海に近そうなので土手を一直線に下流に走ってみると、直ぐに日本海に出た。
 ↓立山連峰を振り返って見ると黒部の谷の入口が見える。遠景の山のうち、右端の少し濃く見える山が左下に向けて尾根線をなだれ落ちさせているが、その落ち際が黒部谷の始まり。この山の裏側に宇奈月温泉が控えている。
↓入善から見た黒部谷の入口。手前の山の背後に宇奈月温泉、そして黒部峡谷がある。
 ↓黒部扇状地の伏流水が随所で湧き出している。その一つ、入善・高瀬の湧水。湧水の恵みを受けようとする人が引きも切らない。
 〇黒部48ヶ瀬を渡って、芭蕉と曾良は酷暑の中、滑川宿に到着する。