2016年5月31日火曜日

〇5/3(火)岡山県総社市「寶福禅寺」 雪舟が少年時代に小僧に出された寺。絵ばかり描いて修行に身を入れないので方丈の柱しばりつけられ、落ちた涙で足の指先で鼠の絵を描いて感心されたという伝説の寺

〇倉敷市から総社市郊外「宝福寺」に到着。重文・三重塔拝観のため。実はボクは知らなかった、この寺が雪舟が小僧に入っていた禅寺だということを。
↓ 三門(禅宗寺院では普通山門と言わない)


 ↓ 三門を潜ると正面に仏殿(法堂(はっとう))
 本尊は虚空蔵菩薩
 ↓仏殿前から三門を振り返り見る。二本の杉が印象的だが、残念ながらその一本は枯死。
 仏殿側面
 ↓ 仏殿の入口にあった絵

 ↓方丈と庫裏
 方丈
 ↓「方丈 ‥‥画聖雪舟が小僧時代に柱に縛られて涙でネズミの絵を描いたという伝説はこの堂内での出来事であります。しかし、天正三年(1575)備中の兵乱の際、方丈は焼失し、雪舟が縛られたいう柱は現存していません。‥‥」
 ↓方丈前の縛られた雪舟彫像
 足先にネズミがいる
 庫裏
 方丈

 ↓鐘楼。庫裏の前にある
 境内奥に進むと経蔵がある
 ↓経蔵の向かいにあるのがこの石碑

 ↓「雪舟碑 雪舟等楊禅師は約五百年前の人であり、総社市赤浜に生まれ、十二才の時当山に入門し小僧となりました。天性画を好み経巻を事とせず、遂に師僧の怒りに触れて方丈の柱に縛られ、落つる涙を足の親指につけて板敷に鼠の絵を描いたということは有名な伝説です。この碑は昭和三年の建立であり、‥‥碑面を三段に分かち、上段の円相内は雪舟の自画像、中段は雪舟筆宋の育王山の全景、下段は藤井高尚の撰文、頼山陽の筆になる碑文であり、画聖の雪舟、国文学の泰斗たる高尚、漢文学の白眉たる山陽という三大文化人によって成る碑であるため、「三絶の碑」と呼ばれています。」

 ↓「雪舟禅師之碑」
 ↓円内・雪舟自画像、四角内・宋育王山全景

 ↓重文・三重塔 実はこの塔を目当てにここに来た。
 〇様式は室町時代の特色を有する代表的建造物と言われ、凡そ600年前のもの。本尊は大日如来。四天王を脇侍とする。



 ↓この寺を去り際に、門外の一画に少年雪舟と鼠の銅像があったことに気付いた。迂闊だった


 ↓「雪舟 総社市の赤浜に生まれた雪舟は、少年の頃から仏門に入り、井山の宝福寺で修行中、本業を忘れて絵ばかり描いていたので、和尚さんに叱られ、柱に縛られてしまいました。それでも雪舟は、落ちた涙で、床にネズミの絵を描き続けました。これを見た和尚さんはその情熱に感心し、絵を描くことを許したと伝えられています。その後、志を立てた雪舟は、京に上り、さらに中国へ渡って、禅と絵の勉強に励み、ついに国宝「四季山水図」などの数多くの名画を残し、世界的な画聖となったのであります。」
〇「流浪の画家」としては、この寺を素通りしては恥さらしだった。

2016年5月30日月曜日

〇「最上稲荷山・妙経寺(二)」 日蓮宗のれっきたる寺院

〇妙経寺は戦国時代末までは天台宗(密教)寺院だったが、江戸時代初期に日蓮宗に改宗。明治時代に日蓮宗を離脱独立して一宗派をなしたが、戦後日蓮宗に復帰。
↓仁王門を入ったところ
 〇新本殿や旧本殿のある広大な一画とは別に仁王門を潜って右側に寺院然とした境内一画がある
 ↓最上稲荷山・妙経寺山門
 ↓山門を潜って左側に大客殿と庫裏
 ↓正面に根本大堂
 ↓参拝門から見た根本大堂
 ↓最上図書館。経蔵の発展形と見ればよいか。
〇今回の再訪で、最上稲荷の奥にやっと足を踏み入れてその不思議な実態を目の当たりにした。神仏習合には、稲荷的神仏習合と修験道的神仏習合の二種類がある。稲荷的神仏習合と云っても稲荷明神を祀っているわけではない。豊川稲荷(曹洞宗寺院)ではダキニ天(インド渡来の仏法守護神)、最上稲荷(日蓮宗寺院)では最上位経王大菩薩(法華経的菩薩)を祀っている。
〇5/3(火)にはもう一つ重要な寺院を総社市で探訪していた。雪舟が少年時代を過ごした宝福寺。次にはその寺を紹介する。最上稲荷探訪と順番が入れ替わったが。

2016年5月29日日曜日

〇5/3(火)岡山市北区高松「最上(さいじょう)稲荷山・妙教寺(一)」 神仏習合形態を残す。日本三大稲荷に数えられることがある

〇最上稲荷は「さいじょういなり」と読む。「もがみいなり」と読んではならない。日本三大稲荷に数えられる寺社は全国に5、6寺社あるが、そのうち寺院であるものは豊川稲荷とこの最上稲荷。最上稲荷は日蓮宗である点が奇異。真言宗・天台宗(密教系)は神仏習合に馴染み易いが、理論が勝った日蓮宗は馴染み難いはずと思っていたら、妙経寺は元は天台宗だったのが改宗したと聞いて納得。序でに豊川稲荷・妙厳寺(みょうごんじ)に触れれば、この寺も意外なことに曹洞宗。だがこちらも元を質せば、開祖が室町時代に豊橋で荒廃していた真言宗寺院・歓喜院を再建しそれを発展させて豊川に妙厳寺を開いた。やはり密教が絡まる。
〇本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏、祈祷本尊は最上位経王大菩薩。最上位経とはすなわち法華経のこと。像容は右手に鎌、左肩に稲束を背負い、白狐にまたがる天女の姿をしており、稲荷神の本地とされる荼枳尼天(だきにてん)の像容とその特徴を同じくする(豊川稲荷は荼枳尼天を祀る。荼枳尼天はインド渡来の仏教守護神の一つで、稲荷明神とは全く異なる)。
〇秀吉の高松城水攻めの際、本陣が裏山に布かれ戦火で一山の堂塔伽藍が焼失した。江戸時代初期に再興され、そのとき天台宗から日蓮宗に改宗。
↓秀吉の水攻めで有名な備中高松城の少し手前に建つ巨大な鳥居
 ↓「最上稲荷総本山・妙経寺」
 ↓最上稲荷は山の中腹にある。参道は緩い階段を長々と登る。その参道入口。
 ↓それがまたいつ来ても暗くて不気味なシャッター通り化している。老舗で廃業した店も幾つかある。初詣客は60万人らしい。
 ↓仁王門

 ↓仁王門を潜る
 すると、キツネが待っている
 ↓本殿・霊光殿 巨大な鉄筋コンクリート建造物。この本殿の本尊は多分《最上位経王大菩薩》 即ち「日蓮宗」系でなくて「稲荷明神」系と推測する。日蓮宗系の根本大堂は「妙経寺(二)」で示すが別に存在する。そちらの本尊は《釈迦牟尼仏》

 〇前回ここを訪れた時は、疲れた足を引きずって参道を登って辿り着いてみれば、鉄筋コンクリート造りの仁王門と本殿、社務所等が目に飛び込んですっかり気分を悪くして、どうせ稲荷社はあっても見る価値のない小社だろうと決め込んでさっさとまた重い足を引きずりながら参道を下った。が、今回は先にいかなる失意が待っていようともとにかく探訪を遂げることにした。
 〇小高い丘の上に出ると‥‥想定外の好ましい光景が展開した



 ↓旧本殿と拝殿
 ↓拝殿
 ↓幣殿

 ↓「最上位経王大菩薩」
 ↓幣殿
 ↓旧本殿・霊応殿


 ↓現在地から左上に向けて登ると「本滝」があり、その奥に「八畳岩」の聖地がある。左下方面の一段低い境内に巨大な鉄筋コンクリート建造物が建ち並ぶ
 ↓本滝へ


 ↓八畳岩へ

 ↓ Aゾーンの摂末社群
 ↓左端に神馬舎がある
 ↓ Bゾーンの摂末社群



 ↓ Cゾーンの摂末社群
  



 ↓ 鐘楼。背後の大建築物は新本殿
 ↓ 妙見堂、秀吉本陣(一の丸)に上がる道
 ↓ 「一の丸」は右下方面の緑色の小円部分
 ↓ 鐘楼辺りから見た小山。多分この山が「一の丸」
↓ Cゾーンの最後の末社。石が御神体