2019年12月29日日曜日

★奥の細道紀行 第222章 柏崎市鉢崎(はつさき)「俵屋六郎兵衛宅跡」(一宿の地)

曽良随行日記』『〇五日 至柏崎ニ、天や弥惣兵衛へ弥三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅(さるのげこく、夏至の頃なので午後6時頃)、至鉢崎宿たわらや六郎兵衛。』
〇芭蕉は柏崎の天屋で不快な扱いを受けて立腹して飛び出し、天屋の手の者が止めるのも聞かず次の宿場・鉢崎宿まで歩き通した。たわら屋に宿を取ったのは午後六時近くだった(当時は、宿場に入るのは未の下刻か申の刻(午後4時前後)が普通だった。現代感覚では少し早いような気がするが、昔は次の宿場で宿が取れるとは限らず(満杯、公的差し障り等)そうなると夜道をさらに次の宿場を目指すことになり大変なので早目に草鞋を脱いだ。その代り朝の出立は早かった。この日歩き過ぎて到着も遅れて疲れが取れなかったと見えて、芭蕉と曾良は翌日の出発を昼すぎに遅らせた。尤も翌日の行程は船路で今町(現・直江津)までだったのでそれを見越してのことだったかも。
↓鉢崎関所直前の岬の山から見た鉢崎宿の現在

鉢崎郵便局
旧JR信越本線・米山駅。鉢崎にある
〇「たわら屋跡」があるかなと思って周っていると、らしきものが見えた。


↓「芭蕉奥の細道紀行 たわら屋跡 柏崎市」
「たわら屋跡」観光案内板
↓たわら屋前から旧鉢崎宿を、上越市(今町)方面に向かって望む
↓たわら屋前から関所・柏崎方面を望む
芭蕉と曾良の痕跡を生々しく嗅ぐことができて、快哉。

2019年12月26日木曜日

〇人形のパステル画

〇2006-4-27の日付の入ったオイルパステル画がちょっと中途半端になっていた。それに手を入れてみた。ソフトパステルをのせてみたのだが、オイルパステルと全然合わない。上塗りが利かない。それでも一応これで完成ということにした。

★奥の細道紀行 第221章 新潟県米山町「鉢崎(はつさき)関所址」

曾良随行日記』 『〇五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻(午前7時過ぎ)止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至柏崎ニ、天や(屋)弥惣兵衛へ弥三良(郎)状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅(さるのげこく。春・秋なら午後4時半頃だが、夏至の頃で日が長いので午後6時頃か)、至鉢崎 。宿たわらや(俵屋)六郎兵衛。』
〇柏崎の天屋(その日泊まる当てにしていた)でぞんざいな扱いを受けて(多分乞食坊主やなんぞと見られた)腹を立て天屋を後にした芭蕉は(天屋の使用人が道まで二度にわたって走り出て止めたが)意地づくで次の宿場・鉢崎を目指した。鉢崎宿の入口にあったのが「鉢崎関所」。芭蕉は必ずやこの関所を通ったはず(関所破りでもせぬ限り)。

↓この岬の山の右が柏崎方面、山を下った左側が鉢崎宿。鉢崎と柏崎の間には小山を背骨とする岬が十余も連なっている。徒歩で旅するには大変な難路。この難路を芭蕉は腹立ち紛れの意地づくで一気に歩き通した。
↓停まっているのはセレナ君。岬の山を下って来ると最初の民家がある。
↓この民家から浜辺にかけての線から左側一帯がかつての関所跡。民家の前に以下の写真の通り記念碑や案内板が並んでいる。
↓「鉢崎関所跡」の石碑、
↓定め書きの立札。他所者の女の出入を厳しく取締る旨定めている。
↓鉢崎関所跡の観光案内板がある。
↓鉢崎関所絵図。岬の山の左に関所が図示されている。

★奥の細道紀行 第220章 柏崎市「天屋弥惣兵衛宅跡」(芭蕉は不快な仕打ちに立腹し止まらずに立去り次の宿場に向かった)

『曾良随行日記』 『○五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻(午前7時半頃)止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至柏崎ニ、天や(屋)弥惣兵衛へ弥三良(郎)状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅(さるのげこく、杓子定規には午後4時半頃だが、夏至の頃のことだから午後6時頃)、至鉢崎宿たわらや(俵屋)六郎兵衛。』
〇芭蕉と曾良は柏崎に至り「天屋惣兵衛」方に弥三郎の紹介状を届けて宿など云い付けたところ、芭蕉を扱う態度が悪く、芭蕉はすっかり気分を害して飛び出した。店の者が二度に亘って道まで走り出て止めたが、芭蕉は止まろうともせずに道を急いだ。結局芭蕉は小雨の中を意地で歩き続けて午後六時頃に(「申の下刻」は理屈通りなら午後五時前だが、当時は夏冬で日中夜間の一刻(いっとき・いっこく)の時間は伸縮した。夏の日中時間の一刻は間延びした。日の出から日の入りまでの時間を六で割り、日の入りから日の出までの時間を六で割るからこうなる。一刻は約二時間。「約」を付けるのが正確)次の鉢崎宿(今、米山町)に着いて泊まった。
◎芭蕉が越後路に不興を覚え《奥の細道》から越後路をほとんどネグレクトしてしまう挙に出た原因の、其の二が柏崎での上の一件だろう。この原因は強烈でなかったか。何せ柏崎で・紹介先の豪商・天屋に泊るつもりだったのにその玄関で不快の目に遭い激怒して天屋を飛び出し、その勢いで鉢崎(はつさき)宿まで四里、米山峠越えの難路を歩き通したのだから大した立腹だった。しかも、翌日の出立は昼時になっている。腹立ち紛れで意地で歩き通した疲れが残ったと見える。天屋で何があったのか。多分、芭蕉のみすぼらしい身なりから乞食坊主と見られ邪険な扱いをされて怒ったのだろう。天屋の主人がそんな扱いをしたのか、番頭・手代がしたのか、そこまでは分からないが、芭蕉の怒り方から見て、天屋の主人の采配を感じ取ったと見てよかろう。天屋は柏崎の豪商だった。
◎「弥三郎の状」 弥三郎とは、象潟で芭蕉一行に追いついて来て以後所々に同道した「美濃の商人・低耳」。低耳の紹介状は翌夕、直江津・今町の聴信寺でも効き目がなく芭蕉を不快にさせる。低耳に信用がなかったのではないかという疑問は無視できない。
↓天屋跡は、柏崎市街の「石井神社」の近くだと見当をつけて先ず石井神社を探索。あった。
↓石井神社




 ↓神社の近くを探索。らしき標識を発見
  
 ↓「芭蕉奥の細道紀行・天屋跡」
 車はセレナ君 。セレナの直前に「天屋跡」の標識がある
 ↓大通りまでの間に空き地・駐車場が広がっているが、この空間にかつて「天屋」があったのではないか。
〇発見できないだろうと思っていた「天屋跡」を発見できたので、ボクはすっかりご満悦。

2019年12月24日火曜日

★奥の細道紀行 第219章 柏崎市「出雲崎」(芭蕉一宿の地「大崎屋」)

曾良随行日記』 『〇四日 ‥‥寺泊ノ方ヘ来たリテ、左ノ谷間ヲ通リテ、国上ヘ行く道有り。荒井ト云塩浜ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハ 、ワタベ(渡部)ト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻(さるのじょうこく、午後三時半過ぎ)、出雲崎ニ着き、宿ス。夜中、雨強く降る。』
 〇出雲崎に到着。「良寛堂」と「芭蕉苑」のあるのが圧巻。
↓良寛堂


 良寛像




 「良寛和尚誕生之地」
 「良寛生誕地橘屋跡」

 日本海・佐渡島を見て坐っている。
〇良寛堂の山側背後に「芭蕉苑」がある。
 良寛堂の背後に「芭蕉園」があり、芭蕉園の前に、小路を挟んだ向かいに芭蕉一宿の地・大﨑屋があった。


 ↑「芭蕉と出雲崎 元禄2年(1689) この北陸路に奥の細道の行脚をしていた芭蕉は、ここ出雲崎(旅人宿大崎屋)に一泊したといわれている。門人の曾良は「曾良旅日記」の7月4日の記述の中に「四日快晴、風(中略)同晩、申ノ上刻(午後3時半頃)出雲崎着宿ス、夜中、雨強降」と記している。この夜海辺の窓を押し開けて大宇宙を観じた俳聖芭蕉は天下の名吟「荒海や佐渡によこたふ天河」の霊感を得たのである。尚、旅人宿大崎屋はここ芭蕉園の真向かいにあり今は民家になっている。」
↓ 芭蕉園


 ↓園内の芭蕉像








↓「ゑちごの駅 出雲崎といふ所より佐渡がしまは海上18里とかや 谷嶺のけんそくまなく東西30余里によこをれふしてまた初秋の薄霧立もあへすヽ手のとヽく計になむ見わたさるけにや此しまはこかねあまたわき出て世にめてたき嶋になむ侍るをむかし今に到りて大罪朝敵の人々遠流の境にして物うきしまの名に立ち侍ればいと冷しき心地せられるヽに宵の月入かヽる此うみのおもてほのくらく山のかたち雲透にみへて波の音いとヽかなしく聞え侍るに
芭蕉
荒海や佐渡によこたふ天河 」




 ↓芭蕉園の前。セレナの停まっているあたりの民家が昔・大﨑屋があった所らしい。