2014年8月31日日曜日

〇8/11(月)「奥の細道紀行」(14) 開山堂・勝道上人を祀る。

↓観音堂・産(さん)の宮




↓仏岩(ほとけいわ)









 
↓開山堂・重要文化財。勝道上人(しょうどうしょうにん)が祀られている。
《奥の細道》より。「卯月朔日(うづきついたち)、御山に詣拝す。往昔(そのかみ)此御山を「二荒山(ふたらやま)」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒(はっこう)にあふれ、四民安堵の栖(すみか)、穏なり。猶(なお)、(はばかり)多くて、筆をさし置きぬ。」
あらたうと青葉若葉の日の光》 あらたうと=あゝ尊い
「補注」①日光山の開基は空海大師でなくて、勝道上人。
    ②「二荒(にこう・と読める)⇒「日光(にっこう)」
〇《あらとうと‥》の句は、ここ開山堂辺りの雰囲気が一番ピッタリ来る。


勝道上人☚リンク







2014年8月30日土曜日

〇8/11(月)「奥の細道紀行」(13) 「養源院跡」

〇《奥の細道》に書かれた日光での動静記事は少ない。
(如月)丗日、日光山の麓に泊る」「卯月朔日、御山に詣拝す」 こう書かれているが、曾良の随行記によると、実際は卯月一日の昼過ぎに日光に着き、その足で社寺の参詣に回ろうとして養源院(社務所があったらしい)に立ち寄り紹介状を見せて便宜を図って貰おうとしたところ、他に客が有りかえって待たされて出発が午後二時過ぎになったよう。その日は見物を終えて、夜「上鉢石町・五左衛門と云う者の方に宿」と記載されている。《奥の細道》の文は行程が実際と前後が違っていることに留意。この五左衛門に芭蕉は興味を持ったと見えて筆を多く労している。「あるじの云けるやう「我名を仏(ほとけ)五左衛門と云。正直を旨とする故に、人かくは申侍(もうしはべる)まゝ、一夜の草の枕も、打解(うちとけ)て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとどめてみるに、唯(ただ)無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質最も尊ぶべし。
曾良がメモしたところによれば、日光に到着して直ぐに「養源院」に出向いている。養源院に行くには元禄時代には本宮神社を通って緩い坂を登っていっただろう。養源院に続いて開山堂、別宮・滝尾神社に至る緩い坂道がある。ボクは、養源院に寄ったのならば本宮神社と別宮・滝尾神社にも参詣しただろうと推測してこの二神社を探訪した。日光三社(本宮・新宮・別宮。新宮は二荒山神社)をすべて探訪した。めでたし。芭蕉と曾良はこの日東照宮・輪王院・二荒山神社を見物したことだろう。それはそそくさとしたものにならざるを得なかった。いくら日の長い季節になっているとはいえ、日光の社寺を半日足らずで見て回るのは大変だ。そして翌日は、裏見の滝・カンマンヶ淵を見物して昼過ぎには黒羽に向かって日光を後にしている。この日程は曾良の随行記によって明らかになっている。とすると、芭蕉はいろは坂を登って男体山(黒髪山)・華厳の滝などを見物していない。それは不可能というもの。それでボクも今回の旅行から、いろは坂を登る旅程を省いた。
↑家康の側室だった於六の方の菩提を弔うために建てられた。「元禄2年(1689)には、松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中、この寺を訪れてから東照宮に参詣した」 明治以降廃寺となった。
〇本宮神社・四本龍寺を抜けて坂を上ると「養源院跡」に出る。




〇8/11(月)「奥の細道紀行」(12) 「小玉堂」





↓養源院へ。
アジサイの花

2014年8月29日金曜日

〇8/11(月)「奥の細道紀行」(11) 日光「神橋」「本宮神社」

○日光山の入口にある「神橋」。川は大谷川。上流に行くと後で紹介する「カンマンヶ淵」がある。神が渡御する橋で、人間は渡れない。




○この神橋がいずれの社寺に属するかが問題。正解はどうやら「本宮神社」らしい。本宮神社はどこにあるか。一般にはこの神社は名すら知られていない。↓実は神橋の向かいに本宮神社参道の入口がある








↓本宮神社拝殿

↑「本宮神社(重要文化財) 古くは、新宮(現在の二荒山神社)・滝尾と共に、日光三社と呼ばれた。創建は大同二年(806)、祭神はアジスキタカヒコネノ命。現在は二荒山神社の別宮。‥‥」
↓拝殿・重要文化財
↓本殿・重要文化財




↓笈掛石(おいかけいし)「勝道上人が笈を立て掛けて休息したと伝えられる」。勝道上人は、日光山を開闢したと伝えられる修験行者。今も修験者が背に負う笈を立て掛けて参拝するそう。
↓四本龍寺・三重塔、重要文化財


↓「四本龍寺三重塔・重要文化財 日光山24世座主弁覚が、将軍源実朝の供養のために1241年に東照宮境内付近に建立。その後この地に移された。1684年の大火で焼失、翌年再建されたのが現在の塔である。‥‥」
↓「四本龍寺紫雲石 ここから西南に少し離れた唯心院境内の礼拝石で、勝道上人が、ある日、礼拝をささげた折、この石の辺りから紫の雲が立ちのぼり、男体山の方へたなびくのを見たということから、紫雲石と呼ばれる。そしてこの地を四神守護の聖地として、四本龍寺を建てたという。現在は、観音堂、三重塔のみだが、日光発祥の地であり、奈良、平安時代の日光の中心地であった。」


↓観音堂


↓三重塔と観音堂
↓三重塔と観音堂の間に残る不動明王石像と護摩壇。日光修験道の峰修行の遺跡。