〇記憶力がはっきり減退したのを自覚してからは、読書意欲をなくした。どうせ忘れるから。去年からでなかったか―|本を手離したのは。それでもこの本だけは読んでおきたいと思う本が何冊かあった。そのうちの二冊を今週読み終えた。「信長公記(しんちょうこうき)・太田牛一(ぎゅういち)著」と「義経記(ぎけいき)」。
太田牛一は信長の家臣。信長の若い時から身辺に仕えた。史実をその都度忠実にメモしたものを後日集大成した。織田信長一代の史実を忠実になぞれる。このような史実再現の一級資料-それもほぼ完璧なものが残されたのは奇跡というしかない。
「義経記」は源義経の一代記ではない。義経一生で最も華々しい活躍を見せた平家追討劇(一の谷・屋島・壇ノ浦の各合戦)や京都で後白河法皇の寵愛を受けた絶頂期のことは殆ど書かれていない。義経と家臣団の平泉への逃亡活劇なのである。作成されたのは1330年頃、鎌倉時代後期から室町時代初期とされている。義経没後百数十年経っている。「義経記演義」のようなものと見ればいいだろう(三国志演義になぞらえている)。
〇今晩(金)夜は楽しみ。NHKBS午後8時から「蛍草-奈々の剣」。清原果耶主演。全7回の今日は6回目。来週で終わるのが寂しい。NHK午後10時から「これは経費で落ちません」。多部未華子主演。全10回のうち今夜は5回目かな?両主演女優(清原果耶は17歳)の魅力・演技力に魅入られている。
2019年8月30日金曜日
★奥の細道紀行 第86章 多賀城市「史跡多賀城跡」
〇多賀城跡に着いた。石碑の刻名は「史跡多賀城跡」。仙台と塩竈の間にある。車道で南北に分断されている。「壺の碑」は城跡内にある。当然芭蕉は多賀城跡を見渡している。ただ《奥の細道》《曾良随行日記》には、多賀城跡見学の記述はない。
↓車道の南方に足を向けると芭蕉句碑があった。
↓多賀城全景。囲み線は外郭線。真ん中の長方形が政庁。政庁から手前に延びる太い線が、外郭南門から政庁に至る一直線の大道。
↓外郭南門復元図
↓南門から「壺の碑」が収まる御堂が見える。
高台の政庁に上る石段
↓これが政庁の立体復元模型。
↓赤い部分に政庁の門があった。門から正殿に向かって白い砂利道が続く。
↓正殿から見てその真後ろにも建物があった。
↓正殿の東側前方に脇殿があった。西側にもあった。
↓政庁の空撮写真
↓手前の政庁側から見ている。。写真中央東西に車道が走っていて、その道を奥に行くと近くに「壺の碑」の御堂、外郭南門がある。
↓車道の南方に足を向けると芭蕉句碑があった。
《あやめ草足に結ばむ草鞋の緒》
↓多賀城・外郭南門前に着いた。↓多賀城全景。囲み線は外郭線。真ん中の長方形が政庁。政庁から手前に延びる太い線が、外郭南門から政庁に至る一直線の大道。
↓外郭南門復元図
↓南門から「壺の碑」が収まる御堂が見える。
↓以下、外郭南門から政庁まで一直線に延びる太い道の跡(写真中央に二本の線で区画された部分)。手前の車道が城跡を南北に分断している。南門は車道からずっと手前にある。左端の舗装部分は遺跡の太い道とは違う。
↓中央奥に政庁跡が見える。高台の政庁に上る石段
↓これが政庁の立体復元模型。
↓赤い部分に政庁の門があった。門から正殿に向かって白い砂利道が続く。
↓白い道の先に敷石の平らな区画がある。正殿の真前。
↓正殿の基礎跡↓正殿の東側前方に脇殿があった。西側にもあった。
↓政庁の空撮写真
↓手前の政庁側から見ている。。写真中央東西に車道が走っていて、その道を奥に行くと近くに「壺の碑」の御堂、外郭南門がある。
2019年8月29日木曜日
★奥の細道紀行 第85章 多賀城市「壺碑(つぼのいしぶみ)」
《奥の細道》《壺碑(つぼのいしぶみ) 市川村多賀城に有(あり)。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺斗(ばかり)歟(か)、苔(こけ)を穿ちて文字幽(かすか)也。四維国界之数里をしるす。「此の城、神亀元年、按察使(あんぜつし)鎮守府将軍大野朝臣東人(あづまひと)之所置也。天平宝字六年、参議、東海東山節度使同じく将軍恵美(えみ)朝臣朝獦(あさかり)修(おさめ)造(つくる)也。十二月朔日(ついたち)」と有り。聖武皇帝の御時に当たれり。むかしよりよみ置ける歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り代(よ)変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑ひなき千歳(ちとせ)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労(つかれ)をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかり也。』
『曾良随行日記』では『‥‥仙台を立つ。十符菅・壺碑を見る。‥‥』とこれだけ。
〇古来歌枕として名高い「壺の碑」と、芭蕉がこうして対面し感激の涙を流した「壺の碑・多賀城碑」はどうやら同一ではない。歌枕としての「壺の碑」は、元来坂上田村麻呂(実は文屋綿麿)が奥州七戸壺村の北に建てたと伝えるものを指し、新古今集頃までの歌枕としてはそれを指したそう。
↓「壺の碑」石碑
↓「壺の碑」石碑
2019年8月27日火曜日
★奥の細道紀行 第84章 塩竈街道「十符(とふ)の菅(すげ)」
《奥の細道》《‥其の日はくれぬ。猶、(画工加衛門は)松嶋・塩がまの所々(ところどころ)、画(え)に書きて送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞(はなむけ)す。さればこそ風流のしれもの、ここに至りて其の実を顕わす。
あやめ草足に結ばん草鞋の緒
かの画図(がと)にまかせてたどり行けば、おくの細道(★註)の山際に十符(とふ)の菅(すげ)有り。今も年々(としどし)十符の菅菰(すげごも)を調(ととの)えて国守に献ずと云えり。》
★註 「おくの細道」 塩竈街道が山際を通る所はとりわけ「細い道」になっていて「おくの細道」と(固有名詞で)呼ばれていたらしい。今は上下四車線道路になっていて交通量が多く往時の面影は全くない。「東光寺」のある辺り、寺に向かって左側付近に「おくの細道」かあったらしい。
『曾良随行日記』『七日 ‥‥夜に入り、加衛門・甚兵へ(衛)入来。冊(短)尺并(ならびに)横物一幅づゝ翁書き給う。ほし飯一袋、わらぢ二足、加衛門持参。‥‥』『八日 ‥巳の剋(午前10時)より晴れる。仙台を立つ。十符菅・壺碑を見る。』
「東光寺」碑
↓本堂。左側の山裾に「十符の菅」の産地があった。
↓本堂。左側の山裾に「十符の菅」の産地があった。
↓十符の菅の特産地を訪ねる目印は「清風荘」というアパートであることは「奥の細道」マニアが著書で述べていた。その清風荘に数年前に来たときはボロアパートだったが、今は綺麗な建物に変わっていた。その門柱に案内板が括り付けられていて風流。
↑「「十符の菅」は、中世以来「みちのくの 十符の菅薦(すげこも) 七符には 君を寝させて 三符に我が寝む」(夫木抄)等と詠まれ、その菅は網目が十筋の菅薦の材料として使用される良質なものといわれ、陸奥の歌枕として知られていた。第四代藩主伊達綱村がこの地を訪れ、「十符の菅」の名所が荒廃しないよう菅守を設け保護し栽培することを家臣及び村中の者に命じた。‥‥」
↑赤丸の地域が、藩主が保護した十符菅の特産地。その右の台地に「東光寺」がある。
最奥の民家の親父さんが出てきたので「十符の菅」を訪ねてくる人がいますかと問うと、それがいるそう。そして坂の途中の青い屋根の家を指して、あの家の辺りで十符の菅を植えていたそうとまで話した。話が出来過ぎてきたので青い屋根の家の写真を撮って↓戻って来た。
〇十符の菅の種を絶やさぬため今も「仙台市岩切市民センター」で栽培が続けられている。栽培地に赴いて現地を撮影しブログ掲載している人がいる。
2019年8月26日月曜日
★奥の細道紀行 第83章 仙台⑦「国分寺跡・重文薬師堂」
《奥の細道》《‥薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて、其の日はくれぬ。》
↓国分寺 仁王門
↓仁王像は出来が拙い。
仁王門をくぐると境内は広く緑が濃い。その昔「木の下」と呼ばれた地域内らしい。正面奥に薬師堂
↓薬師堂・重文
↓水色のセレナ(親友)をわざと写した。
『曾良随行日記』『七日 ‥加衛門(北野加之)同道にて‥‥‥つゝじが岡天神へ詣、木の下へ行く。薬師堂、古へ国分尼寺之跡(★註)也。‥‥』
★註 正確には薬師堂は「国分寺跡」に建っている。
↓白線で囲った地域が「2008年現在の陸奥国分寺」。左上に「木の下公園」、中央に「陸奥国分寺薬師堂」がある。昔の宮城野原の一画。
↓国分寺 仁王門
↓仁王像は出来が拙い。
仁王門をくぐると境内は広く緑が濃い。その昔「木の下」と呼ばれた地域内らしい。正面奥に薬師堂
↓薬師堂・重文
↓水色のセレナ(親友)をわざと写した。
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