2011年6月2日木曜日

4/30(土) 備中「国分寺址」

往時この地には備中国分寺という大寺が建っていた。今はこじんまりとした「国分寺」が建っている。 大師堂

本堂

五重塔





「南門跡」。礎石が三個残っている。他の礎石は抜かれているが、礎石の下に敷いてあった根石が残っており礎石の位置は確定できる。それによると、ここには備中国分寺の正門・南門が間口五間・奥行二間の堂々たる規模で建っていた。そして南門には築地土塀がとりついて東西方向に長く廻らされていた。
五重塔が遥かに見えてくるといかにも備中国分寺址にはるばるやって来たという旅情がしみじみとしてきて、吾輩は疲れを忘れて目を楽しませることができる。遥かに望む備中国分寺址の五重塔を含む風景は絵になっている。

4/30(土) 岡山市高松地区「最上(さいじょう)稲荷」

「歓迎・最上稲荷参道口」。「最上」は「さいじょう」と読む、「もがみ」と読んではならない。「最上稲荷」とは何か、この説明が難しい。先ずは写真を見て戴いて、最後にちょっとした説明を。
参道には店が並ぶ。讃岐の金毘羅さんのような風格ある街並みでは全然ないが、長さは長い。1km近くもあるんじゃないか。


参道を抜けるとこの建築物が現れる。これは、普通の寺院の山門・仁王門に相当するよう。

小高い本堂のある境内に上がって見下ろしたところ。

本堂・霊光堂。その巨大さに圧倒される。新興宗教の本堂かと思わせられるが、この寺院、実は古刹・名刹なのだ。吾輩が無知だっただけ。


赤旗に白抜きの文字は「最上位経王大菩薩」と記してある。この方面に、神仏習合の神の部門が今も立地しているらしい。らしい、というのは、吾輩の脚が疲労困憊したので探訪の労を省いた。この寺院は、明治初年の廃仏毀釈の弊害迫害を比較的蒙らなかったそう。稲荷社もあるに違いない。

こちらの境内の伽藍堂宇は、普通の寺院様式。山門には「最上稲荷山」「妙教寺」とある。

こちらの拝礼門には「日蓮宗」「最上稲荷山・妙教寺」とある。日蓮宗のお寺なのだ。

根本大堂
この寺は歴史ある古刹であるが、戦後一時期「最上稲荷教妙教寺総本山」として独立していたらしい。今は日蓮宗に復帰している。神仏習合の体質を今も濃厚に残しているらしい。

2011年6月1日水曜日

4/30(土) 備中「高松城水攻址」、蛙(かわず)ヶ鼻

羽柴秀吉、畢生一代の大舞台、備中高松城水攻めの現場に向かう。それにしてもこの大鳥居には度肝を抜かれる。「最上稲荷」の鳥居。「最上」をどう読むか。「さいじょう」と読む、しょっている。高松城水攻めの舞台は、この鳥居を潜ったところから始まるといっていい。この鳥居の近傍に「蛙ヶ鼻」の築堤跡が残っている。地元の人に「蛙ヶ鼻」の地理を訊くと、「大鳥居があったでしょう、あの鳥居の傍の小川に沿って…」という具合に説明してくれる。

「清水宗治城跡」と刻された石碑。ここが本丸の中心らしい。

清水宗治公の首塚。本丸跡にある。


ムクドリ発見

本丸から二の丸にかけての一帯。今でも低地で蓮沼が広がっている。

高松城水攻め歴史館

清水宗治・自刃址。天正の昔、ここは水攻めによって水中に没しており、湖面に浮かべた小舟の中で清水宗治は切腹した。それによって高松城に籠った城兵・農民すべてが助命され、秀吉は築堤の堰を切って中国大返しのUターンに突き進んだ。



死ぬまでにこの目に収めておくことを悲願としていた「蛙ヶ鼻」が目の前にあった。


左手前の梯子に付いている楕円形は、水攻め時の水面の高さを表示している。

この図は築堤の長さが3kmだったという説に基づいて描かれている。近時、800m説も有力。


築堤の上から先端に向けて撮影。それにしてもわずかこれだけでもよくぞ崩さずに残しておいてくれたもの。

蛙ヶ鼻から高松城方面を展望する。

2011年5月31日火曜日

4/30(土) 備中一宮「吉備津神社」(3)

「御釜殿」。御釜鳴り物神事(吉凶占い)が執り行われる。 「御釜殿」
また回廊の本通りに戻る。
左手・中山側に末社が三つ、右から八幡宮・大神宮・春日宮。
回廊を左折して脇道すると「御供殿」がある。祭神にお供えする食事を整える所らしい。
さらに回廊本通りを行く。
遂に終点。終点は拝殿。
本殿。合祀されている神々の社は、本宮社を主として御崎社・内宮社・新宮社。
道を挟んで小さな社が目立つ。
回廊の終点は、裏参道の入口らしい。
牡丹苑があった。


南隋神門が最もよく見える地点。