2016年8月4日木曜日

〇《奥の細道紀行》2016.7.16(土) 新潟県胎内市(旧乙(きのと))村「乙宝寺」

芭蕉は《奥の細道》で旧北蒲原郡乙(きのと)村を通過したことも、そこで乙宝寺(おっぽうじ)を訪ねたことも語っていない。凡そ芭蕉は越後路については極めて素っ気ない態度をとり、鼠の関から市振の関までの長途を次の数行で片付けている。
鼠(ねず)の関をこゆれば、越後(えちご)の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、越中(えっちゅう)の国市振(いちぶり)の関(せき)にいたる。この間(かん)九日(ここのか)、暑湿(しょしつ)の労(ろう)に神(しん)をなやまし、病(やまい)おこりてことをしるさず。』
曾良随行日記は、河合曾良による1689年(元禄2年)及び1691年(元禄4年)の日記を中心とする自筆覚書。 その存在は古くから一部には知られていたが、芭蕉研究においては、山本安三郎が再発見して1943年(昭和18年)に出版し全貌が明らかになるまで、疑いの目で見られていた。 出版以来《おくのほそ道研究に一時期を画し、《おくのほそ道》本文における虚構、発句の初案、推敲の過程など、芭蕉の制作意識を考察する上で不可欠な資料となった。奥州行脚の史実を正確に伝え、芭蕉の俳文を解明する根本資料として重要であるとして、1978年6月15日に重要文化財に指定された(Wiki より)。この日記には次のように乙村のことが記されている。
七月朔日 折々小雨降ル。‥‥朝之内、(村上の)泰叟院へ参詣。巳ノ尅(みのこく・午前10時)、村上ヲ立。午ノ下尅(うまのげこく・午後1時前)、乙村ニ至ル。次作ヲ尋、甚持賞ス。乙宝寺へ同道、帰 而つゐ地村、息次市良方へ状添遣ス。乙宝寺参詣前大雨ス。即刻止。‥‥」芭蕉と曾良が乙村を通り乙宝寺を参詣したのは確実なこと。ボクは乙宝寺を訪ねるのはこれで二度目だが、いつ来ても随行日記の一節を思い出し境内を歩く二人の姿をまざまざと見る。
↓ この県道は、芭蕉が通った旧道にほぼ沿っていよう。
↓左の道が、乙宝寺に至る旧参道。




↓乙宝寺の山門





↓ 弁天堂


↓ 大日堂・本堂








↓ 鐘楼
↓ 三重塔・重要文化財






↓ 地蔵堂
↓ 観音堂
〇観音堂の石段の前・左に芭蕉句碑がある。後方の丸い句碑がそう。前列右の句碑は、芭蕉が酒田で世話になった不玉のもの。


↓ 芭蕉句碑。『うらやまし浮世の北の山桜』
↓ 六角堂


↓境内に八所神社がある
↓林の中に小社がある
↓方丈へ
↓弘法大師ゆかりの大葉樫(おおばがし)
↓夢殿・真言堂・方丈




本坊の式台(玄関)
↓惣門
〇乙村は中条町と合併し、中条町は黒川村と合併して胎内市になった。

〇《奥の細道紀行》2016.7.16(土) 新潟県村上市「村上城跡」

曾良随行日記には、村上城中に参内したことが書かれている。
「○二十八日 朝晴。中村ヲ立、到蒲(葡萄村だろう) ‥‥。申ノ上刻(午後三時過ぎ)ニ村上ニ着、宿借テ城中へ案内。喜兵・友兵来テ逢。彦左衛門ヲ同道ス。」
〇《奥の細道》本文で芭蕉は、二泊した村上については全く触れていない。文学作品としての構成上不要と考えて省いた。村上に歌枕はない。
↓村上城登山口。山頂は標高135m。
↓明後日(月・海の日)、月山八合目に立つが、果たして登頂に挑む資格があるかどうか、その試金石のつもりで登った。坂道の写真が多過ぎるかも知れないが、ボクにはそんな思い入れがあるので悪しからず。




途中、展望台があった。


↓とうとう山頂の入口石垣に到着。月山登山は覚束なし。


↑↓ 「四ツ門跡」。四つ足門跡と云う意味だろう。
↓調練場跡
↓この地図を子細に検討すると、「四ツ門」は四つ足門ではなく、東西南北四方向に備えた門が文字通り四つあったと見える。
↓二の丸石垣
↓御鐘門跡。二の丸入口にあたる。


↓出櫓跡
↓本丸石垣
↓先の石垣を廻り込むと本丸入口がある。
本丸跡。村上城は籠城できてもせいぜい1500名が限度だろう。しかも長期籠城は兵糧が持たない。信長・秀吉時代の様に大軍を動員する戦争になるととても役に立たない。
村上市街の眺望。右側の山裾を三面(みおもて)川が流れて日本海に注ぐ。
天守櫓跡に咲く百合。
  ↓下山。登山口に隣接して「城主居館跡」が広がる。
〇芭蕉は村上城中のどこまで案内されたかは分らないが(案内者は家老職だったらしい)、村上城の登り口辺りまで来たことは間違いなかろう。ボクは芭蕉が訪れた所をまた一つ踏んだことになる。