〇《奥の細道》に書かれた日光での動静記事は少ない。
「(如月)丗日、日光山の麓に泊る」「卯月朔日、御山に詣拝す」 こう書かれているが、曾良の随行記によると、実際は卯月一日の昼過ぎに日光に着き、その足で社寺の参詣に回ろうとして養源院(社務所があったらしい)に立ち寄り紹介状を見せて便宜を図って貰おうとしたところ、他に客が有りかえって待たされて出発が午後二時過ぎになったよう。その日は見物を終えて、夜「上鉢石町・五左衛門と云う者の方に宿」と記載されている。《奥の細道》の文は行程が実際と前後が違っていることに留意。この五左衛門に芭蕉は興味を持ったと見えて筆を多く労している。「あるじの云けるやう「我名を仏(ほとけ)五左衛門と云。正直を旨とする故に、人かくは申侍(もうしはべる)まゝ、一夜の草の枕も、打解(うちとけ)て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとどめてみるに、唯(ただ)無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質最も尊ぶべし。」
曾良がメモしたところによれば、日光に到着して直ぐに「養源院」に出向いている。養源院に行くには元禄時代には本宮神社を通って緩い坂を登っていっただろう。養源院に続いて開山堂、別宮・滝尾神社に至る緩い坂道がある。ボクは、養源院に寄ったのならば本宮神社と別宮・滝尾神社にも参詣しただろうと推測してこの二神社を探訪した。日光三社(本宮・新宮・別宮。新宮は二荒山神社)をすべて探訪した。めでたし。芭蕉と曾良はこの日東照宮・輪王院・二荒山神社を見物したことだろう。それはそそくさとしたものにならざるを得なかった。いくら日の長い季節になっているとはいえ、日光の社寺を半日足らずで見て回るのは大変だ。そして翌日は、裏見の滝・カンマンヶ淵を見物して昼過ぎには黒羽に向かって日光を後にしている。この日程は曾良の随行記によって明らかになっている。とすると、芭蕉はいろは坂を登って男体山(黒髪山)・華厳の滝などを見物していない。それは不可能というもの。それでボクも今回の旅行から、いろは坂を登る旅程を省いた。
↑家康の側室だった於六の方の菩提を弔うために建てられた。「元禄2年(1689)には、松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中、この寺を訪れてから東照宮に参詣した」 明治以降廃寺となった。
〇本宮神社・四本龍寺を抜けて坂を上ると「養源院跡」に出る。