2011年6月5日日曜日

6/4(土) 京都をウロウロと。山科「毘沙門堂」、一乗寺「詩仙堂」「八大神社」「曼珠院」、大原「来迎寺」「勝林寺」、伏見「御香宮」

土曜日は宿泊地の電波状態が悪かった。それで日曜日に打電することになった。土曜日朝、福井県南条SA06:50に目覚め。07:40出発。10:00京都山科の「毘沙門堂」探訪。天台宗門跡寺院。天台宗門跡寺院は五つ。三千院・曼殊院・青蓮院・妙法院(三十三間堂を末寺にする)そして毘沙門堂。山科から大原への途次、一乗寺で寄り道。先ず「詩仙堂」、名前に惹かされた。隣の「八大神社」にも。「一乗寺下がり松」はこの神社の境内に生えていたという。吉岡一門と決闘する宮本武蔵の二刀流の銅像が建っている。さらに近くの「曼殊院」も探訪。それから大原へ。先ず「来迎寺」探訪、三千院の奥裏。さらに「勝林寺」を拝観。駐車場に戻ったのが15:35。今日の本命は鞍馬寺の奥の院探訪だったがもう遅い。これから鞍馬山に走り奥の院に入って17:00の閉門までに麓に戻って来れる時刻ではない。鞍馬山を止めて京都に戻っても戻るのに時間を食って何処を探訪するにしてもやっぱり閉門時刻にかかる。本日土曜日の探訪は早めに打ち切り、その代わり明日は奈良盆地を走ることにして今日のうちに足を伸ばしておくことに。明日は「新薬師寺」探訪から始める。国道24号線を南下していたら「御香宮」を通りかかった。この方面では「城南宮」と共にかねてちょっと気になっていた神社。探訪してみた。旧府社。氏子の崇敬が篤そう。伏見城の大手門を継承している(重文)、伏見城の石垣残石を境内に積んであった。行きがけの駄賃のつもりだったんだが値打ちのある探訪だった。

2011年6月3日金曜日

6/3(金) 週末を迎える。久しぶりに流浪の旅に出る。

この週末、久しぶりに好天が続くらしい。週明けの仕事の日程とその準備がきつい。きついけども、そんなことは言ってられない。余命幾ばくもないことを忘れてはならない。ということで流浪してきます。行き先は…決まってません(決まってたら、流浪と言えないんじゃないでしょうか)。京都・奈良・河内方面に向かう。それでは…

4/30(土) 備中「国分尼寺址」

備中「国分尼寺址」まで歩いた。中央の土の盛り上がりは築地土塀址。この寺は、東西108m、南北216mの寺域を有しその周囲には築地土塀を廻らしていたという。その基部の痕跡。 中門跡。礎石はないが、土の盛り上がり痕跡から推定できるんだそう。

金堂跡。礎石が綺麗に残っている。

塔跡。礎石はないが、盛り土痕跡などから推定されるそう。

講堂跡。礎石が一部残っている。礎石には柱を据える彫り跡が見える。

4/30(土) 備中「こうもり塚古墳」

備中国分寺跡近くに「こうもり塚古墳」がある。界隈には幾多の古墳がある。中でも代表的な古墳は「造山(つくりやま)古墳」。全長360mの前方後円墳、全国4番目の大きさ。


2011年6月2日木曜日

4/30(土) 備中「国分寺址」

往時この地には備中国分寺という大寺が建っていた。今はこじんまりとした「国分寺」が建っている。 大師堂

本堂

五重塔





「南門跡」。礎石が三個残っている。他の礎石は抜かれているが、礎石の下に敷いてあった根石が残っており礎石の位置は確定できる。それによると、ここには備中国分寺の正門・南門が間口五間・奥行二間の堂々たる規模で建っていた。そして南門には築地土塀がとりついて東西方向に長く廻らされていた。
五重塔が遥かに見えてくるといかにも備中国分寺址にはるばるやって来たという旅情がしみじみとしてきて、吾輩は疲れを忘れて目を楽しませることができる。遥かに望む備中国分寺址の五重塔を含む風景は絵になっている。

4/30(土) 岡山市高松地区「最上(さいじょう)稲荷」

「歓迎・最上稲荷参道口」。「最上」は「さいじょう」と読む、「もがみ」と読んではならない。「最上稲荷」とは何か、この説明が難しい。先ずは写真を見て戴いて、最後にちょっとした説明を。
参道には店が並ぶ。讃岐の金毘羅さんのような風格ある街並みでは全然ないが、長さは長い。1km近くもあるんじゃないか。


参道を抜けるとこの建築物が現れる。これは、普通の寺院の山門・仁王門に相当するよう。

小高い本堂のある境内に上がって見下ろしたところ。

本堂・霊光堂。その巨大さに圧倒される。新興宗教の本堂かと思わせられるが、この寺院、実は古刹・名刹なのだ。吾輩が無知だっただけ。


赤旗に白抜きの文字は「最上位経王大菩薩」と記してある。この方面に、神仏習合の神の部門が今も立地しているらしい。らしい、というのは、吾輩の脚が疲労困憊したので探訪の労を省いた。この寺院は、明治初年の廃仏毀釈の弊害迫害を比較的蒙らなかったそう。稲荷社もあるに違いない。

こちらの境内の伽藍堂宇は、普通の寺院様式。山門には「最上稲荷山」「妙教寺」とある。

こちらの拝礼門には「日蓮宗」「最上稲荷山・妙教寺」とある。日蓮宗のお寺なのだ。

根本大堂
この寺は歴史ある古刹であるが、戦後一時期「最上稲荷教妙教寺総本山」として独立していたらしい。今は日蓮宗に復帰している。神仏習合の体質を今も濃厚に残しているらしい。

2011年6月1日水曜日

4/30(土) 備中「高松城水攻址」、蛙(かわず)ヶ鼻

羽柴秀吉、畢生一代の大舞台、備中高松城水攻めの現場に向かう。それにしてもこの大鳥居には度肝を抜かれる。「最上稲荷」の鳥居。「最上」をどう読むか。「さいじょう」と読む、しょっている。高松城水攻めの舞台は、この鳥居を潜ったところから始まるといっていい。この鳥居の近傍に「蛙ヶ鼻」の築堤跡が残っている。地元の人に「蛙ヶ鼻」の地理を訊くと、「大鳥居があったでしょう、あの鳥居の傍の小川に沿って…」という具合に説明してくれる。

「清水宗治城跡」と刻された石碑。ここが本丸の中心らしい。

清水宗治公の首塚。本丸跡にある。


ムクドリ発見

本丸から二の丸にかけての一帯。今でも低地で蓮沼が広がっている。

高松城水攻め歴史館

清水宗治・自刃址。天正の昔、ここは水攻めによって水中に没しており、湖面に浮かべた小舟の中で清水宗治は切腹した。それによって高松城に籠った城兵・農民すべてが助命され、秀吉は築堤の堰を切って中国大返しのUターンに突き進んだ。



死ぬまでにこの目に収めておくことを悲願としていた「蛙ヶ鼻」が目の前にあった。


左手前の梯子に付いている楕円形は、水攻め時の水面の高さを表示している。

この図は築堤の長さが3kmだったという説に基づいて描かれている。近時、800m説も有力。


築堤の上から先端に向けて撮影。それにしてもわずかこれだけでもよくぞ崩さずに残しておいてくれたもの。

蛙ヶ鼻から高松城方面を展望する。