2016年8月3日水曜日

〇《奥の細道紀行》2016.7.29(金) 高岡市郊外「二上山」

曾良随行日記に「二上山」を見物したことが出る。
「○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(海岸線に沿って新湊・伏木あたりを通過したということ)‥‥ 氷見へ欲行、不往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻(午後三時過ぎ)着テ宿。翁、気色不勝。 暑極テ甚。不快同然。」
〇「二上山」は歌枕。芭蕉の旅は歌枕を訪ねる旅だった。
万葉集《玉くしげ二上山に鳴く鳥の 声の恋しき時は来にけり》大伴家持
↓高岡市北郊から見た二上山


 〇大伴家持の脳裏に焼き付いていた奈良当麻寺から見た二上山
 ↓奈良盆地から見た二上山(Wikiより)


〇《奥の細道紀行》2016.7.29(金)新湊市「放生津(ほっしょうづ)八幡宮」裏の「奈呉の浦碑」

前回「放生津八幡宮」を訪れた時は夕暮れが迫って焦っていたこともあって、肝腎の「奈呉の浦」石碑を探索し損ねた
ので今回熱中症ですごすごと引き返す道中の駄賃にと寄って行くことに。奈呉の浦については曾良随行日記に次の記載がある。
○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計)。 氷見へ欲行、不往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不勝。 暑極テ甚。不快同然。
↓八幡宮の裏。左から拝殿、本殿、塀、塀の手前の石碑が「奈呉の浦」碑。




↓「奈呉の浦碑」
〇歌枕「奈呉の浦」
家持「東風いたくふくらし奈呉の海人 釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」
宗良親王「今はまた訪いくる人も奈古浦に しほたれて住むあまと知らなん」
宗祇「やとれ月今朝秋風の奈呉の浦」
芭蕉「早稲の香や分け入る右は有磯海」
↓これが現在の奈呉の浦。埋め立てられて漁連の倉庫・工場が建ち並ぶ。芭蕉が訪れた時代にはまだ白砂青松の海岸だったろう。
〇この日、高岡市「二上山」も撮影。高岡市「イワセノ」(岩瀬野、石瀬野)は目下不明。

〇7/29(金) 滑川市の絶景情報

〇いずれも道の駅「ウェーブパークなめりかわ」で見つけた写真。
↓海岸中央に凹んでいる箇所が滑川漁港。その右側の街並が滑川市街地。背景の山は立山連峰。中央の尖っているのが剣岳、その左が毛勝三山、右が立山。芭蕉と曾良が渡河した黒部48箇瀬は写っていない(ずっと左側)。剣岳を水源とする川は常願寺川(写真の右側に河口が開ける)。この海岸線を芭蕉と曾良が暑気と闘いながらとぼとぼと歩いて滑川の宿に辿り着いたかと思うと感慨ひとしお。
 ↓JR滑川駅南側出口から見える晩秋の風景だそう。山は剣岳。絵になっている。死ぬまでに必ず訪れて描こう。

2016年8月2日火曜日

〇《奥の細道紀行》2016.7.29(金) 滑川市「徳城寺の芭蕉句碑」

「‥徳城寺は、北陸街道(今の県道1号線)沿いにありましたが、明治13年(1880)に現在地に移転してきました。‥翁を顕彰するために川瀬知十(芭蕉宿泊宿「川瀬屋」の主)らが建立した有磯塚があります。‥」
 ↓徳城寺山門

 ↓鐘楼
 ↓本堂
 ↓本堂前に仁王像が立つ
 〇有磯塚
 ↓芭蕉句碑。風化して刻字が判読できない。プラスチック板で保護されている。
 新しい句碑。《早稲の香やわけ入る右はありそ海》
 ↓「有磯塚 早稲の香やわけ入る右はありそ海 芭蕉 明和元甲申年十月十二日(1764年)
元禄2年(1689年)春「おくの細道」紀行に旅出た松尾芭蕉は門人曾良と共にみちのくから日本海側の越後を通り、旧暦七月十三日越中へ足を踏み入れ同夜は滑川で宿した。この句はこのころ詠まれたものであろう。翁の七十回忌に、滑川俳壇を代表する川瀬知十らが句碑の建立を思い立ち、有磯の浜の砂を手でさらえ、荒波かかる自然石を荷い運んで地元ゆかりのこの秀吟を刻み古刹徳城禅寺境内に建立したものである。明治十三年徳城寺が荒町海岸から現在地に移ったとき、句碑も共に移転し今日に及んでいる。」
◇旧北国街道(今の県道1号線)を櫟原神社、川瀬屋跡と暑気にやられながらも歩を進めたが、ターンして徳城寺を訪ねる頃にはすっかりグロッキー。さらにJR滑川駅前の旧北国街道道しるべに辿り着いた時はもはや熱中症状態。駅から海辺の道の駅までは途中の小公園の木陰のベンチに横たわったりしながら辿り着いた。土・日の新潟県・群馬県旅行の気力体力は失せていた。仕方なくすごすごと七尾にUターン。

〇《奥の細道紀行》2016.7.29(金) 滑川市「櫟原(いちはら)神社の芭蕉句碑」

〇海浜の道の駅を元気一杯出発した。が、暑い。路面近くは40~50度はあるんじゃないか。街の中心の櫟原神社に着いた時はかなりグロッキー気味。
 男の子が二人、画板を広げて絵を描いていた。夏休みの宿題かい、と訊くと頷く。この猛暑日に風景写生の宿題に取り組むとはすこぶる感心。見ると定規を使って鳥居を描いていて感心しない絵だった。よっぽど手を出したかったが我慢した。




 〇池の傍に芭蕉句碑発見。

 〇『しばらくは花の上なる月夜かな
↓「この句は、松尾芭蕉が元禄4年(1691)に詠んだ句である。碑の裏面には‥‥と刻まれており、安政2年(1855)に如青ら四名が発起人となり建立したことが分る。‥‥」
〇櫟原神社境内に摂社金毘羅社がある。この摂社の常夜灯は「川瀬屋」(芭蕉と曾良が宿泊した宿と推測されている)が寄進したそう。文化12年(1815)の年号が刻まれている。
★常夜灯を撮り損なったのは遺憾!

〇東京都選挙管理委員会発表

〇東京都選挙管理委員会は1日未明、都知事選の開票結果(確定値)を公表した。小池百合子氏は291万2628票を獲得。増田寛也氏は179万3453票、鳥越俊太郎氏は134万6103票だった。
  此の票差では自民党東京都連はぐうの音も出ない。投票率も前回よりも13%押し上げられた。偏に小池百合子の実力に拠る。潮の目が変わった。壇ノ浦の戦いのよう。
 安倍晋三は総裁選の時の恩讐を超えて(小池百合子は安倍を裏切り石破に寝返った)新都知事との融和協力体制を築こうとするだろう。小池新都知事も首相を敵に回さない戦略を立てているに相違ない。敵役は、石原伸晃自民都連会長(彼はとにかく小池が嫌い)・内田茂自民都連幹事長、そして森善朗東京五輪パラリンピック組織委員会会長に絞る筈。
 それにつけても森会長のリオのホテルでの取材会見は間が抜けている。「小池さんはよく勉強してほしい」と注文をつけたそう。小池氏は選挙中「予算・運営の決定過程が不透明」と批判してきた。森会長は「責任者の知事としての五輪への考え方(がどうなるか)。それを注目したい」と語ったそう。「小池さんとうまくやっていく自信はあるか」と問われると、「小池さん次第ですね」と述べたというから攻守の立場(ballがどちらにあるか)がまるで分っていない。以上は読売新聞から引用。小池新都知事と森会長は不倶戴天の敵となる定め。潮流に乗るのは小池新都知事。安倍首相も賢く潮流に乗る。打ち取られるのは老害の人。小者二人は早晩切腹。
〇単騎、大敵に向って真っ先駆けて突撃したジャンヌ・ダルク。鵯(ひよどり)越えの断崖を率先逆落としした源義経。小池百合子は目下この歴史的英雄に比肩する勢い。だが英雄達は早々に非業の死を遂げる。彼女はどうか。ボクの予想では彼女は非業の最期を迎えない。賢い。度胸・決断力だけの女ではないことは選挙戦で存分に示した。

2016年8月1日月曜日

〇《奥の細道紀行》2016.7.29(金)富山県滑川市に芭蕉宿泊地跡を探訪する。

〇越後市振を出てから越中国に入ってからのことは、芭蕉は《奥の細道》で簡単に記すのみ。
「くろべ四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云う浦に出ず」 那古の浦は今の新湊市あたりの海岸線と思われる。
越中国では滑川と高岡に泊まったことが曾良随行日記に記されている。
「13日、市振立つ。‥(越)中・(越)後の堺、川有り。渡りて越中の方に越す。堺村と云う。‥人雇いて荷を持たせ黒部川を越す。‥申(さる)の下剋(げこく)(午後四時頃)滑河(なめりかわ)に着き、宿す。暑気甚だし。‥」
〇滑川にはほとんど情報を持たずに入り込んだので期待していなかったのだが、道の駅で案内嬢(細身のおばさん)に芭蕉句碑の存在の有無を尋ねたらパンフレットを片手に見事な観光案内をしてくれた。満願の解説。パンフレットには何と芭蕉が宿泊したという説がある「川瀬屋跡」まで記してあった。喜び勇んで滑川の旧市街を訪ねて句碑箇所と川瀬屋跡地それにJR滑川駅前の旧北国街道道しるべを全て探訪した。それは好かったのだが、案内嬢の一言が余計な不幸を招いた。「旧市街で駐車場がないので歩き回った方がいいですよ」。ボクはその言葉を有難く頂戴して徒歩で滑川市街の大半を歩いた。暑気甚だしい日だった。ボクは道半ばでグロッキーになった。多分熱中症。駅前のベンチで休み途中の公園の木陰の長椅子で寝転がり、ようようのことで道の駅に辿り着いた。土・日の野宿旅行を続ける気力体力は失われていた。ので七尾に戻ることにした。家に着いたのが18:30.。女房が変な顔をしていた。
↓県道1号線。これぞ旧北国街道だろう。
 ↓海岸線近くをそれに平行に走る県道1号線
 ↓防波堤・日本海を背に「川瀬屋跡」がある。小公園になっている。

 ↓右側の団子石「芭蕉翁・おくのほそ道宿泊のまち」
 川瀬屋の主人は門人でもあった。

 ↓川瀬屋跡の筋向いにある「荒町(新町)公民館」
〇芭蕉と曾良が疲れた足を引き摺ってとぼとぼ歩いた旧北国街道をボクも歩き、そして滑川で宿泊したと思しき「川瀬屋跡」にも到達した。望外の幸せだった。