2016年8月7日日曜日

〇〈文化財探訪〉7/2(土) 大阪府南河内郡太子町「推古天皇陵」

〇小野妹子の墓からほど遠くない所にある『推古天皇陵』を探訪した。見付け難かったがあの岡の辺りではないかと見当を付けて行ってみると果たしてそう。所在地は大阪府南河内郡太子町大字山田。
↓「推古天皇磯長山田陵」入口


 背後の古墳が天皇陵。方墳だそう。
推古天皇と 敏達天皇の間に生まれた竹田皇子も合葬されている。


〇推古天皇、近親の皇太子・摂政聖徳太子、外戚の大臣・蘇我馬子については、日本書紀・古事記にその事績・関係等が記されているが、謎の多い時代である。南河内、斑鳩、葛城山麓、飛鳥地方を広角に俯瞰して地勢学的観点からも考察してみる必要がある。

2016年8月6日土曜日

〇《奥の細道紀行》 富山市東岩瀬「諏訪神社」の家持歌碑

〇芭蕉と曾良は滑川を発った後、常願寺川を渡り神通川のほとりの東岩瀬村に着いた。この後神通川を渡り、さらに庄川を渡って伏木に出て氷見に行くつもりを変更して高岡に宿を取る。この東岩瀬の諏訪神社に家持の歌碑がある。ここ東岩瀬は、歌枕「イワセノ(石瀬野)」とは違うとボクは思うが、芭蕉がここへ来て神通川の渡しに乗ったことは確かなので芭蕉を偲んで諏訪神社・家持歌碑探訪記を残しておこう。
↓東岩瀬の諏訪神社一の鳥居。鳥居の右側手前に家持歌碑がある。

 ↓家持の歌碑

 『いわせのに秋萩しのぎ 馬並(な)めて 始鷹狩(はつとがり)だにせずや別れむ』 
 ↓二の鳥居
 ↓拝殿
 ↓神通川の河口右側に東岩瀬「諏訪神社」がある。

〇《奥の細道紀行》 高岡北東の歌枕「石瀬野(イワセノ)」

万葉集・大伴家持 『石瀬野(イワセノ)に秋萩しのぎ 馬並(な)めて 初鳥狩(はつとがり)だにせずや別れむ』 この歌枕「イワセノ」を伏木から高岡に行く道中に探訪したことを曾良随行日記は認めている。高岡北東の郊外に「高岡いわせの郵便局」があることを知ったので探訪に。
↓庄川の河口に近い。庄川を渡って高岡に出る、丁度その位置にある。
 ↓その名も「高岡いわせの郵便局」
 ↓前に大伴家持の歌碑がある。

 石瀬野(イワセノ)に秋萩しのぎ 馬並(な)めて 初鳥狩(はつとがり)だにせずや別れむ』
〇ボクはここが芭蕉が探訪した歌枕「イワセノ」の地だと思う。この郵便局の消印が面白い。丸いスタンプの中に家持の歌が書き込まれているそう。ボクは葉書を買って自宅宛に消印して郵送して貰おうと店内に入ったら、何と閉店。郵便局も土曜日閉まるんだっけ。いつか絶対消印を押してもらう。

〇《奥の細道紀行》 曾良随行日記の滑川~高岡の段の解説を試みる

〇曾良随行日記の滑川~高岡の段は行路の記述が比較的詳細・正確で、越中人なら解読が容易なのかもしれない。しかしそれ以外の者にはちんぷんかんぷんだろう。ボクは最近この行程をセレナを駆って二度に亘り辿ってみた。その結果、現代の地図に落としてこの行程を誰にも分るように解説できるようになったと思う。それで僭越ながら自説の御披露に。
先ず曾良随行日記の上程から。
○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計)。 氷見へ欲行、不往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不勝。 暑極テ甚。不快同然。』
この文章を現代語に意訳すると、「七月十四日(西洋暦で8月28日)、快晴。暑気が酷い。富山に向わずに海岸線に沿って旧北国街道を辿る。数々の越中の歌枕(奈呉の浦・田子の藤浪・二上山・岩瀬野等)を見たかったので(滑川から一里程来ると常願寺川の渡しに着く。渡った所で富山に向う分岐点がある)。滑川から三里で東岩瀬村に着く(ここに渡しが有る。大河であり名は神通川)。神通川を渡ってから四里半で新湊の放生津八幡宮に着く(新湊で渡しが有る。大変大きな川で川幅が半里(2km)ばかりもある。川の名は庄川)(★註:当時庄川と小矢部川の河口は合体していたらしい)。渡った所が伏木。ここから歌枕・田子の藤浪を見るため氷見へ行こうと思ったが行かなかった。高岡に向うことになった。伏木から高岡の行程は二里だった。奈呉の浦・二上山・岩瀬野等の歌枕を見れた。高岡に午後四時前に着いて宿を取った。翁のご機嫌は悪い。暑気は本当に酷い。不★同然である。(註;★印部分の文字は原文で判読不能とか)」
〇当時の1里は約4km(弱)だった。人が半刻(はんとき・1時間)で歩く距離がほぼ1里。
〇「ハウ生子」、これの解釈が難問だった。「はうしょうず」と読ませるのだろう。それなら「放生津(ほうしょうづ、ほっしょうず)八幡宮」(新湊の海王丸パークの近くにある)に違いない。
〇常願寺川、神通川、庄川までのそれぞれの里程はほぼ合っている。
〇何かスッキリ感がある。

〇今日は《奥の細道》と『曾良随行日記』を片手に富山県越中路の芭蕉足跡を探求する。

 『石瀬野(いわせの)に 秋萩しのぎ  馬並(な)めて 初鳥狩(はつとがり)だにせずや別れむ』 「石瀬野」は歌枕。そのイワセノ」の地名が曾良随行日記に出てくる。芭蕉はイワセノを通っている。そこでこの「イワセノ」を探訪する。「高岡いわせの」郵便局があるらしい。
それから滑川から高岡までの行程が曾良随行日記によるとかなり詳しい。
『○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計)。 氷見へ欲行、不往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不勝。 暑極テ甚。不快同然。』この行程をできるだけ忠実に辿ってみる。江戸時代の一里は36町で約4km弱。結果報告は《奥の細道紀行》として。

2016年8月5日金曜日

〇《奥の細道紀行》2016.7.16(土) 新潟護国神社の「芭蕉堂」

〇芭蕉と曾良は新発田市築地から水運を利用して新潟に至り宿泊した。このくだりは曾良随行日記には次のように記してある。
二日 辰ノ刻(午前8時)、(築地を)立。 ‥‥昼時分より晴、アイ風出。新潟へ申ノ上刻(午後3時過ぎ)、着。一宿ト云、追込宿之外ハ不借(追込み宿のほかは宿を借れず)。大工・源七・母、有情、借。 甚持賞ス。』 大工の源七の母親が情ある人で宿を貸してくれた。
〇「アイの風、出る」との記述から舟便で新潟に着いたことが推察される。当時築地から新潟までは沼・潟・河を繋いだ水運が発達していた。そのことは前章の「築地宿」で述べた。
大工源七の家が新潟の何処にあったかを知ることはできない。新潟で芭蕉を記念するものを探すのは難しい。ようやく探し当てたのが護国神社の「芭蕉堂」。
↓新潟護国神社・二の鳥居
 拝殿
 ↓護国神社としては全国屈指。「芭蕉堂」を発見するのは至難だと見て「おはらい受付所」に寄った。巫女さんが懇切に教えてくれた。
 ↓二の鳥居を潜って一の鳥居に向うんだそう。
 ↓途中で横に入る所がある。
 ↓入って探すと分る。そうだがちょっとやそっとでは分り難い。
 ↓発見

 ↓「新潟名所・芭蕉堂 俳聖芭蕉翁元禄二年新潟に来りて文化の種をまきしを記念して。現存する芭蕉翁の記念堂としては日本一の大きな建物なり。永久保存のため堂の中は全部コンクリートつめにして中に翁の肖像画と由来書を銅筒に入れてあります。‥‥。昭和41年5月 吉原芳仙自費(500万円らしい)建設して新潟市へ寄贈す。」


↓側面に嵌め込まれたレリーフ 《海に降る雨や恋しき浮身宿 芭蕉》 芭蕉が新潟に滞在したことに因む句だと言われている。
↓芭蕉と曾良の旅姿 芳仙は画家
 ↓近くに蓑塚がある

 ↓左に「芭蕉堂」、右に「蓑塚」 
 ↓一の鳥居に近い

〇《奥の細道紀行》2016.7.16(土) 新発田市築地・芭蕉宿泊の地「築地宿」

曾良随行日記によると、芭蕉と曾良は築地村で宿泊している。
『七月朔日 折々小雨降ル。‥‥巳ノ尅(みのこく・午前10時)、村上ヲ立。午ノ下尅(うまのげこく・午後1時前)、乙村ニ至ル。次作ヲ尋、甚持賞ス。乙宝寺へ同道、帰 而つゐ地(築地)村、息・次市良(じいちろう)方へ状添(そえて)遣ス。乙宝寺参詣前・大雨ス。即刻・止(やむ)。申ノ上尅(さるのじょうこく・午後3時半頃)、雨降出。及暮、つゐ地(築地)村・次市良へ着、宿。‥‥』
↓この県道が、芭蕉が通った街道にほぼ当ろう。築地村の外れ。
 ↓乙村から来たことを示す。
 ↓築地という字名の交差点。ここが芭蕉の宿泊した築地宿の中心だったろう。「次市良(郎)」方が何処にあったかは分らない。




(参考)築地から新潟までの水路の様子←リンク先http://www.ne.jp/asahi/m.mashio/homepage/okuhoso-47.html
現在の地形では、築地から新潟まで水路が通じていたことなどは想像できないのだが、「正保越後国絵図」にその様子が描かれている。築地には塩津潟があり、その先に鳥見前潟、福島潟などがあり、それらを結んで水路が開かれている。新潟付近では阿賀野川と信濃川が合流し、大きな河口を形成している。これらの水路をたどってゆけば築地から新潟まで船便で到達することができた。(下図は「奥の細道の旅」杉原恭男、杉田美登著より転載