2020年1月28日火曜日

★奥の細道紀行 第240章 富山県入善町「松尾芭蕉奥の細道記念碑」

曾良随行日記『泊ニ到テ越中ノ名所少々覚者有。入善(にゅうぜん)ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黒部川ヲ越。(情報によると)雨ツヾク時ハ山ノ方へ廻ベシ。(すると)橋有。(橋まで)壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴(雨となり降りて晴れる)。申ノ下尅(さるのげこく。夏だから午後5時過ぎだろう)、滑 河(なめりかわ)ニ着。暑気甚シ。』
↓旧道沿いの入善町商店街。この旧道が、芭蕉の通った北国街道ではないかとボクは推測した。馬次駅入善で馬を利用としたが、あいにく馬を調達できなかった。
歩いてみると駐車場をはじめ公共サービスがふんだんに整備されている町で至極訪問しやすい。好感度抜群。ボクは街の中心部を歩いた。寺社も美しい。特に銅像が好い。芸術家を生み出してきた町ではないか。
↓「入善神社」

 忠魂碑の銅像が素晴らしい


 ↓養照寺
 救世観音が美しい


「うるおい館」で町の情報を仕入れた。芭蕉の情報はない。
入善駅に着いた。
駅前の案内看板絵図を観察していて気が付いた。左端っこに「松尾芭蕉記念碑」が表わされている。
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小躍りしてハリアーの所に戻りいざ出発。旧道を行くのだが段々心細くなる道筋。市街地を完全に外れた。とうとう河の土手にぶつかってしまった。途方に暮れようとしたとき、何とその突き当り道の左手にささやかながらまごうかたなき「松尾芭蕉奥の細道記念碑」があった。
 「明治天皇御野立所」に隣接していた


↓「おくの細道
  くろべ四十ハヶ瀬とかや
   数知らぬ川をわたりて
  那古(なご)という浦に出づ」
↓松尾芭蕉像
↓「奥の細道記念碑 解説
 元禄2年(1869)3月27日、俳聖芭蕉翁は門人曽良を供に旅に出率。江戸深川を起点に、奥羽・北陸を経て、岐阜大垣までの道程600里の大旅行を成し遂げた。旅を終えた芭蕉は、元禄7年4月紀行文の執筆を手掛け、日本文学史を代表する「奥の細道」が誕生した。左の碑文は、平成8年に発見された芭蕉翁自筆本の中から、元禄2年7月13日(新暦8月27日)入善町を通過したし際の記述を復刻したものである。
   おくの細道
 くろべ四十ハヶ瀬とかや
  数知らぬ川を渡りて
   那古という裏に出ず
曽良随行日記 冒頭に引用した通りなので省略
富山県内での句は、次の一句のみである。
 わせ(早稲)のか(香)や分け入る右はありそ海‥‥‥」
河の土手に上がってみると、眼下に黒部川が出現した。
↑青い橋を国道8号線バイパスが通っている。

2020年1月26日日曜日

★奥の細道紀行 第238章 越中越後国境「堺村・堺川」

曾良随行日記』 『○十三日 市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四五丁有。中(越中)・後(越後)ノ 堺、川(境川)有。渡テ越中ノ方、堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。』
↓「境橋」と「二級河川・境川」の標識
 ↓境川。上流方面
 ↓境橋。奥の細道の時代、境川には橋がなかった。写真は国道8号線だが、旧北陸道もほぼ海岸線を縫っていたから、芭蕉が境川を渡った地点はこの辺りとみていいだろう。
 ↓境川・上流
 ↓下流・河口。日本海の水平線が見える
 ↓旧境村。国道8号線バイパスから別れて旧道(今は県道)に入る。古民家の酒の醸造・販売屋が残っている


★奥の細道紀行 第239章 富山県朝日町「加賀藩境関所跡」

 ↓「境関所跡」は境橋から 0 . 7kmの近距離。国道8号線バイパスから分岐して旧道に入る。  
 ↓境関所跡 芭蕉と曾良はこの加賀番所を通っている。出手形が必要で、入り手形は不要だった。










 ↓「境関阯」石碑
 ↓関の池
 ↓立派な「関の館」が建っている




 ↓「加賀藩・境御関所」の銘入り提灯

2020年1月24日金曜日

★奥の細道紀行 第237章 糸魚川市「市振の関跡」

《奥の細道》《鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改めて、越中の市ぶり(実は越後の国)の関に到る。此の間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。‥‥》
〇《奥の細道》の中の、羽前鼠の関から越後市振までの旅程の記述はたったこれだけ。
↓「市振関所跡」 芭蕉と曾良はこの関所を通った。


 ↓「市振関所址 江戸時代初期徳川幕府は、重要な政策の一環として全国に53の関所を設け、街道行旅の人々を取り締まった。「市振の関」はその53関中重要23関の一つであった。親不知子不知の険難の地を東方に控え、北陸道に於ける越中との国境の要衝として寛永(1624~)年代のはじめ幕府は高田城主松平光長に命じて、ここに関所を設けた。
 関所関所で髪改める 娘十七髪解けん  今に伝えられる
この関所の特徴は行旅の人々の検問のための番所と、海上監視の遠見番所から成っていたことである。‥‥
なお、現存する市振小学校校庭内のは、関所敷地内にあったもので、昭和49年4月16日「関所榎」として青海町文化財に指定する」

  ↓「関所榎(えのき)」
〇遂に越後路を通り抜けた。

2020年1月23日木曜日

★奥の細道紀行 第236章 糸魚川市「市振宿・桔梗屋跡」『一家に遊女もねたり萩と月』は妄想

曾良随行日記』〇十二日 ‥‥申ノ中剋(さるのちゅうこく・午後4時過ぎ)、市振に着き、宿。』
↓「伝・芭蕉の宿『桔梗屋跡』 この地は、元禄2(1689)念7月12日に、俳人松尾芭蕉が『奥の細道』の旅すがら、一夜の宿をとり、

一つ家に 遊女も寝たり 萩と月
の名句を詠んだと伝えられる桔梗屋跡です。桔梗屋は、市振宿における脇本陣でしたが、大正3(1914)年の大火で焼失してしまい、現在はその跡地が残るのみとなっています。安政3(1856)年に刊行された俳人中江晩籟の句集『三富集』には次のように記されています。
 市振の桔梗屋に宿る。むかし蕉翁、此宿に一泊の時、遊女も寝たる旧地なり。
 寝覚めして 何やらゆかし 宿の花
良寛もこの地に一宿し、次の句を詠んだといわれています。
 市振や 芭蕉も寝たり おぼろ月」
↓奥の細道探訪隊に混ざる。お蔭で桔梗屋跡を発見できた。
「奥の細道市振の宿桔梗屋跡」
 ↓市振、現今の家並
〇ところで市振の宿と言えば『一家(ひとついへ)に遊女もねたり萩と月』の句が余りにも有名。二人の遊女と芭蕉が隣室で泊まったという話は、芭蕉の創作。越後路の記述が短く無味で冷淡過ぎるので、同路の最後を創作劇に一句を添えて華やかに飾ろうという文学的思惑から出た。
 芭蕉と曾良の越後路の旅程は、陰暦6月27日から7月12日(陽暦8月12日から8月26日)までの15日間。盛夏の旅だった。暑気に当てられて作品作りの意欲を失わせられた面はあろう。しかしそれにしても、芭蕉が越後路について《奥の細道》に書き残したのはただの素っ気ない一章である。只事ではなかろう。以下先ず《奥の細道》の越後路の章段の全部を一挙に掲示して、越後路に対する芭蕉の異様に冷淡な態度を示す。それと、これまで縷々紹介してきた『曾良随行日記』の越後路の内容の豊富さを対比させれば、芭蕉の越後路に対する態度の冷淡さが露わになる。一体越後路で、芭蕉の心に何があったのか(既述のように芭蕉は越後路で再三不快な目に遭わされて、紀行文に力を入れる意欲を失わせられた)。
奥の細道》《酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々(はるばる)のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで百卅(130)里と聞く。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改めて、越中の国
(実は越後の国)市ぶり(市振)の関に到る。此の間九日(★註1)、暑湿の労に神(心神)をなやまし、病おこりて事をしるさず。
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河
 今日は、親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなど云ふ、北国一の難所を越えてつかれ侍れば、枕引きよせて寝たるに、一間(ひとま)隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人斗(ばかり)ときこゆ。年老いたるお(を)のこの声も交じりて物語するをきけば、越後の国新潟と云ふ所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此の関までお(を)のこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也。「白浪のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契(ちぎり)、日々の業因(ごういん)、いかにつたなし」と物云ふをきくきく寝入りて、あした旅立つに、我々にむかひて、「行衛(ゆくへ)しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍らん。衣の上の御情(おんなさけ)大慈に、のめぐみをたれて、結縁(けちえん)せさせ給へ」と泪(なみだ)を落す。不便(ふびん)の事には侍れども、「我々は所々にてとゞまる方おほし。只人の行くにまかせて行くべし。神明の加護かならず恙(つつが)なかるべし」と云ひ捨てて出でつゝ哀れさしばらくやまざりけらし。
一家(ひとついへ)に遊女もねたり萩と月
曾良にかたれば、書きとゞめ侍る(★註2)
〇越後路篇はこれだけ。後も先もない。最後の市振の篇を除けば味も素っ気もない。
★註1 「此の間九日」 鼠の関を越えて市振まで(越後路全部)、この間の旅程を芭蕉は九日と言っているが、《曾良随行日記》によれば実は十五日。
★註2 「曾良にかたれば、書きとゞめ侍る」 曾良の市振での日記は次の通り。
十二日 ‥‥。申ノ中剋(さるのちゅうこく、四時過ぎ)、市振ニ着き、宿
十三日 市振立つ。虹立つ。‥‥ 』 これがすべて。「曾良にかたれば、書きとゞめ侍る」←この文自体が芭蕉の創作・虚構の可能性大。

★奥の細道紀行 第235章 糸魚川市市振「天嶮親不知」

奥の細道》《今日(きょう)親しらず子しらず・犬もどり・駒返(こまがえ)しなどいふ北国一(ほっこくいち)の難所(なんじょ)を超(こ)えてつかれはべれば、(市振の宿で)枕(まくら)引(ひ)きよせて寐()たるに、一間(ひとま)隔(へだ)てて面(おもて)の方(かた)に若(わか)き女の声二人(ふたり)ばかりと聞こゆ。‥》
『曽良随行日記』には親不知を越えた記事はない
〇国道8号線が親不知にかかると道はくねくねと屈曲しながら上昇する。その途中に「親不知記念広場」が設けられている。運転に必死なので大概の人は見落とす。
 ↓赤丸の現在地が記念広場


 ↓浮世絵に描かれた親不知


 〇天嶮親不知。芭蕉と曾良はこの海岸沿いを歩いて行ったに違いない。天候不順ならば、能生宿で足止めを食ったろう。この日の天候を気にしていたと見えて曾良は随行日記に次の通り書き付けている。『○十二日 天気快晴。能生ヲ立。』




 ↓天嶮に開かれた道がある(今は遊歩道)。その絶壁に「如砥如矢」の四文字が刻まれている。明治時代に道を通した時、村長が刻ませたという。原典の漢文ではこの四文字は道の状態を指す表現らしいが、明治時代にここに到達したローエルはこの絶壁の状態の表現と解釈した。磨かれた砥石の如くピカピカで・飛ぶ矢の如く真っ直ぐ。
 ↓「如砥如矢」
 ↓親不知記念広場に母子像が立っている




 ↑↓「天嶮断崖黎明」柱
〇親不知の険を越えると市振宿に着く。