2020年1月23日木曜日

★奥の細道紀行 第236章 糸魚川市「市振宿・桔梗屋跡」『一家に遊女もねたり萩と月』は妄想

曾良随行日記』〇十二日 ‥‥申ノ中剋(さるのちゅうこく・午後4時過ぎ)、市振に着き、宿。』
↓「伝・芭蕉の宿『桔梗屋跡』 この地は、元禄2(1689)念7月12日に、俳人松尾芭蕉が『奥の細道』の旅すがら、一夜の宿をとり、

一つ家に 遊女も寝たり 萩と月
の名句を詠んだと伝えられる桔梗屋跡です。桔梗屋は、市振宿における脇本陣でしたが、大正3(1914)年の大火で焼失してしまい、現在はその跡地が残るのみとなっています。安政3(1856)年に刊行された俳人中江晩籟の句集『三富集』には次のように記されています。
 市振の桔梗屋に宿る。むかし蕉翁、此宿に一泊の時、遊女も寝たる旧地なり。
 寝覚めして 何やらゆかし 宿の花
良寛もこの地に一宿し、次の句を詠んだといわれています。
 市振や 芭蕉も寝たり おぼろ月」
↓奥の細道探訪隊に混ざる。お蔭で桔梗屋跡を発見できた。
「奥の細道市振の宿桔梗屋跡」
 ↓市振、現今の家並
〇ところで市振の宿と言えば『一家(ひとついへ)に遊女もねたり萩と月』の句が余りにも有名。二人の遊女と芭蕉が隣室で泊まったという話は、芭蕉の創作。越後路の記述が短く無味で冷淡過ぎるので、同路の最後を創作劇に一句を添えて華やかに飾ろうという文学的思惑から出た。
 芭蕉と曾良の越後路の旅程は、陰暦6月27日から7月12日(陽暦8月12日から8月26日)までの15日間。盛夏の旅だった。暑気に当てられて作品作りの意欲を失わせられた面はあろう。しかしそれにしても、芭蕉が越後路について《奥の細道》に書き残したのはただの素っ気ない一章である。只事ではなかろう。以下先ず《奥の細道》の越後路の章段の全部を一挙に掲示して、越後路に対する芭蕉の異様に冷淡な態度を示す。それと、これまで縷々紹介してきた『曾良随行日記』の越後路の内容の豊富さを対比させれば、芭蕉の越後路に対する態度の冷淡さが露わになる。一体越後路で、芭蕉の心に何があったのか(既述のように芭蕉は越後路で再三不快な目に遭わされて、紀行文に力を入れる意欲を失わせられた)。
奥の細道》《酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々(はるばる)のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで百卅(130)里と聞く。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改めて、越中の国
(実は越後の国)市ぶり(市振)の関に到る。此の間九日(★註1)、暑湿の労に神(心神)をなやまし、病おこりて事をしるさず。
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河
 今日は、親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなど云ふ、北国一の難所を越えてつかれ侍れば、枕引きよせて寝たるに、一間(ひとま)隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人斗(ばかり)ときこゆ。年老いたるお(を)のこの声も交じりて物語するをきけば、越後の国新潟と云ふ所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此の関までお(を)のこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也。「白浪のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契(ちぎり)、日々の業因(ごういん)、いかにつたなし」と物云ふをきくきく寝入りて、あした旅立つに、我々にむかひて、「行衛(ゆくへ)しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍らん。衣の上の御情(おんなさけ)大慈に、のめぐみをたれて、結縁(けちえん)せさせ給へ」と泪(なみだ)を落す。不便(ふびん)の事には侍れども、「我々は所々にてとゞまる方おほし。只人の行くにまかせて行くべし。神明の加護かならず恙(つつが)なかるべし」と云ひ捨てて出でつゝ哀れさしばらくやまざりけらし。
一家(ひとついへ)に遊女もねたり萩と月
曾良にかたれば、書きとゞめ侍る(★註2)
〇越後路篇はこれだけ。後も先もない。最後の市振の篇を除けば味も素っ気もない。
★註1 「此の間九日」 鼠の関を越えて市振まで(越後路全部)、この間の旅程を芭蕉は九日と言っているが、《曾良随行日記》によれば実は十五日。
★註2 「曾良にかたれば、書きとゞめ侍る」 曾良の市振での日記は次の通り。
十二日 ‥‥。申ノ中剋(さるのちゅうこく、四時過ぎ)、市振ニ着き、宿
十三日 市振立つ。虹立つ。‥‥ 』 これがすべて。「曾良にかたれば、書きとゞめ侍る」←この文自体が芭蕉の創作・虚構の可能性大。

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