〇台風の接近があるらしく雲行きが怪しい。「飯盛山」の近くに着いた。有り難いことに飯盛山に登る人のための無料駐車場が幾つか用意されている。飯盛山に登ることは、ボクの全国遊覧の旅にとって残された数少ない眼目の一つ。遂にそれを達成する。
↓飯盛山の登り口。背後の山が「飯盛山」↓「飯盛山動く坂道」が用意されている。有料。
↓「動く坂道」の終点から白虎隊士の墓地がある山の中腹までは余すところこれだけ。疲れた脚にとっては本当に助かる「動く坂道」であったことは告白しておく。
↓左すると「白虎隊士の墓」、右すると「白虎隊士自刃の地」
↓左側、白虎隊士の墓地
↓右側、自刃の地への降り口。
↓「会津藩殉難烈婦碑」戊辰戦争で戦死又は自刃した会津藩の婦女子230余命の霊を弔うために建立された石碑。
↓「吉田伊惣次氏篤志の碑 飯盛山で自刃した白虎隊士の遺骸は、戊辰戦争が終わってもしばらく風雨にさらされたままでした。近くの牛ヶ墓村の肝煎(世話人)吉田伊惣次はこの惨状を見て、村人らと密かに飯盛山と近くの妙国寺に仮埋葬しましたが、西軍のとがめを受け獄舎に繋がれました。後日、自発的行為と分り許されましたが、この碑は明治33年(1900年)、その篤志を称える有志によって建てられました。」
〇「白虎隊士の墓」
↓「白虎隊士の墓 白虎隊は16・17歳の少年たちで編成され、士中、寄合・足軽の各隊がありました。正面の墓は慶應4年(1868年)8月23日、ここ飯盛山で自刃した士中白虎二番隊19名の墓です。隊士の遺骸は、西軍により手を付けることを禁じられていましたが、村人により密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後にこの地に改葬されました。現在の形に整備されたのは、明治23年(1890年)で、二度にわたり墓域が拡張されています。
右側の墓は領内各地で戦死した31名(士中3名、寄合22名、足軽6名)の墓で、同33年(1900年)に建てられました。
左側の碑は白虎隊所属の有無に関係なく領内をはじめ京都、新潟、栃木などで大人と一緒に戦い戦死した14~17歳の少年武士62名の慰霊碑です。「白虎隊の中間達」として平成13年(2001年)に建てられました。」
↓正面に白虎隊士の墓が19基並んでいる
↓右側の墓
↓左側の碑 「少年武士慰霊碑 白虎隊外戦死者 14歳より17歳」
〇自刃の跡へ
↑↓「飯沼貞雄翁の墓 白虎隊自刃者中ただ一人蘇生した飯沼貞吉(のち貞雄)は、印出新蔵の妻ハツに助けられました。後に逓信省の技師となり、仙台逓信管理局公務部長に進み、我が国の逓信事業に多大な貢献を果たし、昭和6年(1931年)仙台市で78歳の生涯を閉じました。
白虎隊の実録は、彼によって知ることが出来ました。
戊申戦役90年祭が行われた昭和32年(1957年)、多くの友が眠るこの地に遺髪などが移され、墓碑と顕彰碑が財団法人前島会仙台支部によって建てられました。」
↓中央に写っている地点の左側がやや広くなっている、そこが自刃の地跡。
↓「至自刃の跡」 まさにここが自刃の跡。
〇自刃の跡
↓「慶應4年(1868)8月23日、年齢が16~17歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は猪苗代から十六橋を越えて進撃した西軍と戸の口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門を潜ってこの地に至った。
炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を戦わした。敵陣突入を提案する者もいれば、鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして帰城を主張する者もいた。しかし、最終的に「誤って敵に捕らえられ屈辱を受けるような事があれば、主君に対して大変申訳なく、祖先に対しても申訳ない。この場は潔ぎよく自刃し、武士の本分を明らかにするべき》との決断にはじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。
後、一名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。
なお、鶴ヶ城開城はその一ヵ月後であった。」
〇白虎隊は初めから飯盛山に籠って戦ったのではない。猪苗代湖方面で戦って敗走し、猪苗代湖の水を若松盆地に引く狭い水利用洞門を這うように潜って飯盛山の裾に出、そして飯盛山に登って鶴ヶ城下の形勢を観望したのである。
↓「白虎隊殉難士各霊塔」
↓煙霧の奥中央に鶴ヶ城が見えるはず。
〇飯盛山の上で土砂降りとなった。傘の用意がなかったボクはずぶ濡れにながらそれでもここを先途と撮り続けた。その結果、愛用のデジカメが動かなくなった。急遽会津若松のヤマダ電器で代わりのデジカメを仕入れて旅を続けた。