〇岩手県北端から青森県北東部にかけて一戸から九戸までの地名が並んでいる。地理好きのボクの目には小学校時代から目立っていた。この際これら地名の地域を探訪しようと思い立ったのは、岩手県雫石町の小岩井農場を後にした時だった。早速グーグル地図を検索してルートの当たりを付けた。その分布を子細に見ると意外なことに最南端は九戸村で順番に北上して一戸市、二戸町と続く。九が一番南というのも意外の内だったが、何よりも一から九までがすべて青森県内だとボクは思い込んでいたがそれが外れたのが最も意外。一戸(いちのへ)市と二戸(にのへ)町までが岩手県北端。三戸(さんのへ)町が青森県南端に位置しそこから北上して五戸(ごのへ)町、六戸(ろくのへ)町、七戸(しちのへ)町と続く。七戸町は十和田市に南接する。これらすべての市町は内陸深くに位置する。八戸市はここで一転して南下ししかも海岸に位置する。九戸村はさらに南下し内陸深くに入るという訳。注目すべきは四戸(しのへ)の地名が存在しないこと。現存しないだけでなくかつて存在したことがないという。一説によると四戸は「死のへ」に通じて縁起が悪いので忌避されたという。ただ人名に「四戸(しのへ)」さんは僅かに存在するらしい。戸(へ)の付く特殊な地名、これらはそれぞれの地域住民にとっては愛着が強くまた矜持も伴うらしい。それが証拠にあの平成の大合併の嵐を掻い潜ってすべての戸(へ)が生き残った。七戸町は十和田市との合併話がまとまりかけたが最後に壊れたらしい。反対勢力が壊したのだろう。
この変てこな地名の由来については諸説が乱れて結論が出ていない。ボクは軍事拠点が置かれた地域の名だと思う。防禦柵が張り巡らされた軍事基地が築かれその出入口に「戸」が置かれた。門だ。軍事基地は先ず岩手県北端の内陸に一戸が築かれ、順次前線基地が内陸を北上して七戸まで伸びた。それが一転して海岸線に出て南下し八戸が築かれた。さらに南下して内陸に入り一戸の南に九戸が築かれた。誰が何のために誰を敵としてこんな城砦を築いていったのか。それについては史料が語るところはない。
↓九戸神社
「首塚 中世の英傑・九戸左近将監源政実公」 この人物は、豊臣秀吉軍とこの地で対峙したとき、己一個の首を差出して籠城したすべての将兵・民の命を救ったという。さながら秀吉の備中高松城水攻めの際に湖上で独り切腹して城中の将兵・民の命を救った城主清水宗治を髣髴とさせる。↓九戸政実を祀る摂社
「政実神社 祭神・九戸政実公 ‥‥天正19年秋、世にいう九戸の乱において、天下人豊臣秀吉麾下6万5000と云われる大軍を相手に、僅か5000の軍兵克く互角に対抗して一歩も引かぬ戦いを展開して、遠征の諸将をして「九戸勢侮り難し」とその武勇を嘆賞せしめて、その名を永く史上に残しています。‥‥」
↓九戸村役場
↓九戸氏一族の菩提寺・長興寺