2019年1月31日木曜日

〇2017-5-3(水)《奥の細道紀行》芭蕉一宿の地「登米宿」

〇登米宿での芭蕉一宿之地の探訪は市街地をいくら走っても皆目見当が付かなかった。道端の親切そうなお婆さんに訊いたらヒントを与えてくれた。
↓それでようやく手掛かりを掴んだ。ここを左に行き北上川の土手に出る。
 ↓発見。右から「芭蕉一宿之地」案内板、「芭蕉一宿之地」石碑、「北上川」標識
 ↓北上川に架かる大橋。この橋を渡って対岸からこちら側、登米市街に来た。
 上流を見る
 ↓「芭蕉一宿之地」案内板

 ↓「芭蕉一宿之地」石碑
 石碑裏側。「元禄」から始まる

 ↓北上川の登米市側の土手。芭蕉一宿之地の石碑と案内板が左側に立つ。

〇2018-9-15(土) 甲賀市「油日(あぶらひ)神社」甲賀の古社

〇「縣社 油日神社」




↓「油日神社は南鈴鹿の霊宝油日岳の麓に鎮座する古社で、古くは油日岳を神体山とし、社伝では頂上に大明神が降臨して、油の火のような光明を発したことから油日の名が付けられたとされ、山頂には岳大明神が祀られています。油日大明神を主神とし、罔象女命(みずはのめのみこと)、猿田彦命を祀り、「日本三代実録」によれば、平安時代の元慶元年(877)の条に「油日神」が神階を授かったことがみえます。室町時代に作成された「油日大明神縁起」には、聖徳太子によって勧請された由来が説かれ、「聖徳太子絵伝」をはじめ、太子の本地である如意輪観音の懸仏や「聖徳太子絵伝」が所蔵されており、中世には甲賀武士たちが聖徳太子を軍神として崇めるとともに、「甲賀の総社」として信仰されていました。明応4年(1495)に建てられた本殿は、近隣の多くの武士たちが力を合わせて寄進したもので、戦国時代には、油日神社が甲賀衆たちの拠り所となっていたことが分かります。こうした甲賀武士たちの崇敬は現在の祭礼行事にもあらわれています。例えば、五年に一度執り行われる油日祭の奴振(やっこぶり)では、上野の頭殿(とうどう、殿様)が奴を伴って油日神社に社参しますが、これもかつての甲賀武士たちの姿を伝えるものです。また、国の史跡である境内には、南北に本殿・拝殿・楼門が建ち並び、楼門の左右からは境内を囲むように廻廊が延びています。いずれも国の重要文化財の指定を受けた建造物で、中世の神社景観を今に伝える貴重な文化財となっています。」
↓楼門・重文
↓内側から見る
↓拝殿・重文


↓神饌所だろう
↓本殿・重文






↓左右の回廊・重文






↓摂・末社
↓摂末社の隣に御堂がある。これは仏堂だろう。神仏習合の名残だろうが、社殿として残されたか。
〇神社の風格は縣社に止まるような低いものではない。立派な官幣社の風格。ただ祭神が「油日大神」という一地方神だったので社格が上がらなかったと見える。
〇重要文化財
本殿(附・棟札15枚) 明応2年(1493)建立。
拝殿 桃山時代建立
楼門(附・棟札3枚) 永禄9年(1566)建立
廻廊2棟 永禄9年(1566)建立

↓祭礼行事「奴振(やっこぶり)」



 

2019年1月30日水曜日

〇2018-5-5(土) 弘前市岩木山麓「高照(たかてる)神社」重文8棟、2基

〇落日と競争して黒石から岩木山麓の高照神社境内に駆け込んで、夕闇が降りるまでのひと時に撮影した。
↓一の鳥居


 ↓二の鳥居

 ↓三の鳥居
 ↓重文・随神門(附・高塀2棟)

 ↓重文・拝殿及び幣殿

 右後方に本殿
 ↓重文・本殿。重文・中門
 左手前・拝殿、右奥・本殿と中門
 ↓本殿と中門。重文・西軒廊
 ↓拝殿裏側。重文・幣殿、重文・西軒廊
 本殿、中門、西軒廊
 本殿、中門。左端重文・東軒廊
 ↓高照神社廟所
 ↓本殿背後に廟所に行く参道が続く

  
 津軽信政公廟所
 ↓重文・廟所門


 ↓重文・廟所拝殿
 ↓墓2基(重文)が収納されている、多分。左の小に拝墓が納められ、右奥の大に本墓が納められているのではないか。

 ↓廟所拝殿

 ↓右の小建物に拝墓、左の大建物に本墓が納められている、多分

〇高照神社は宝永7年(1710)に卒去した弘前藩4代藩主の津軽信政の廟所に起源を持つ。5代藩主信寿が信政の遺言に則り、翌正徳元年(1711)に吉川従足を斎主とする神葬祭を斎行して廟所を営み、その翌年(1712)に本殿を造営して信政の神霊を遷祀したのが創祀で、享保15年(1730)に高照神社と称した。藩政時代を通じて津軽氏歴代の崇敬社であった。
本殿から鳥居までの主要建造物が東西軸上に配され、これは吉川神道に基づく独特な社殿構成とされ、全国的にもあまり類例がないものとされる。
〇社殿8棟と墓2基が平成18年に重要文化財に指定された。工芸品等の文化財にも見るべきものが多数ある。中でも太刀二振りは重文。