2011年6月13日月曜日

6/11(土) 蘇った平泉寺白山神社。

4/16、まだ残雪がある。



↑  境内の杉苔は、今冬の大雪の下敷きになってこってりと苛められ、杉の落下した枝葉にこっぴどく傷められて、見る影もない。
↓ この週末・土曜日の有様。 一の鳥居が小さく見える。
この草花の名が知れない。「ホタルブクロ」ではなかろう。
二の鳥居
拝殿が奥に見える
摂末社
本殿
拝殿の左右に、往古の拝殿跡の礎石が残っている↓。それから拝殿の規模を想定すると信じ難いことだが、間口が45間もあった。有史以来日本一大きな拝殿だった。

平泉寺白山神社は、寺院だったのか、神社だったのか。徹底した神仏習合の白山信仰修験道の根拠地だったから、どちらでもいいんだが、平泉寺白山神社自身は、神仏分離令が発せられる以前かられっきとした神社だったと主張している。

6/13(月) 週末旅行の報告

先週末・金曜日、事務所の山崎さんが「また週末ですねぇ」と言って吾輩の目をチラ見した。目が悪戯っぽかった。旅費を支給してくれるつもりだな、言わずとも、と思ったら案の定千円札で20枚呉れた。彼も人間が大分出来てきたf^_^; もっとも週末の天気予報は好くない。特に西日本が悪い。東にするかな、やっぱり西に向かうかな、と迷いながら土曜日の朝を迎えた。さて出発しようとセレナを出したら途端に小雨がフロントガラスを濡らしだした。幸先悪過ぎと思い、セレナをまた車庫に戻して事務所に上がり旅行記録の整理をした。昼食は久し振りに能登島大橋を渡り「海とオルゴール」で摂った。雨の気配は去っていたので能登島から京都に向けて出陣することに。もう午後2時近かった。こんな半端な時間では今日は只管セレナを走らせて京都に近づくだけのこと、そう思ってハンドルを握っていたら、丁度間に合う日程が閃いた。越前勝山・平泉寺白山神社の苔の様子を見に行くこと。春に見に行ったら、今冬の大雪により落下した杉の枝葉で、境内一円の杉苔の絨毯が見るも無惨に覆われて踏みにじられていた。一見掃除不能、回復不能の有様。その苔の境内の様子を見に行くことに。北福井ICで下りて勝山へ。到着は午後四時半。夏至も近いというのに雲が重く垂れこめてもう夕暮れのように昏い。境内を上って行くと、苔を傷めていた杉の枝葉は除去されていた。平泉寺白山神社本来の緑の絨毯になるためには、もう一段きめ細かい清掃が要る。それと梅雨を経過して夏を迎える時間。それにしても司馬遼太郎が訪れてきて「苔寺の庭など、この境内の苔と比べたら問題にならない」と評した広大な領域に展開された美しい苔の大絨毯を手入れする人達は一体何処の何者だろう。この疑問はここを訪れる度に浮かぶのだが、今日ほど疑問に思ったことはない。帰り際、一の鳥居近くの石段で、二人連れの学者風の男性参詣者に出会った。吾輩は「ちょっとお尋ねしてもいいですか」と切り出した。50過ぎの若い方の人が「何でも訊いて下さい」と答える。単なる参詣者ではない。吾輩は疑問を端的に説明した。春先に訪れた時に存在したあの絶望的な量の杉の枝葉の落下物、あれを掃除してここまで回復させた人達は何処のどなた達かご存知ないですか。すると50過ぎの人は、自分の鼻先を人差し指で指しながら「ワシ、ワシ」と言って嬉しそう。よくぞ訊いて下さったと言わんばかり。「わたし達ですか」と複数形の確認を入れると、「いや、ワシ」と単数形で断ずる。「氏子はいないんでしょう」「そう、いない」。「村の人達も手伝ってくれるんですか」「年二回奉仕してくれる。ただ、今年は大雪のせいで例年の50倍もの枝葉が落ちた。村の人達も戦意喪失で余り頼りにならなかった。女房もあんまり手伝ってくれない」。村の人達というのは多分「神社奉賛会」の人達。どうやらこの人がほぼ一人でこの大境内の、苔寺・西芳寺の庭苔よりも美しい杉苔を手入れし護持しているらしい。とすれば、この人が「平泉(ひらいずみ)家」の当主ということか。平泉家というのは明治以降も人材を輩出してきた。東大の国史学教授だった人に平泉澄(多分当主)がいた。その息子の平泉渉は外交官・政治家で科技庁長官・経企庁長官。その人はかなり登った石段の上から声を掛けてきた。「七月にまた清掃します。これに懲りずにまたお出で下さい」そして「あなたは何処から来られたんですか」。この後、福井県南条SAに入ったのが午後七時。土曜日はここで宿泊。道中、福井平野で丸い夕日が赤々と沈んで行くのを見た。明日、西日本も晴れるのかなぁと思った。

2011年6月11日土曜日

6-11 佐賀県武雄市「川古の大楠」

最近感動させられた写真の一枚がこれ。佐賀県武雄市・川古の大楠。吾輩は元来神仙でも宿りそうな老大樹に感銘を受け易いが、この大楠の写真には参った。きっとこの老樹に会いに佐賀県まで出かける。この老楠(おいぐす)、背後に回ると相当朽ちて痛ましいらしい。今春の大旅行で四国讃岐の善通寺境内で出逢った大楠にも感動させられた。それが何本も生えている。善通寺の大楠は、どの角度から見ても良い。


6/11(土) 吾輩は藤原氏一族也

今春、多武ヶ峯・談山神社に詣でたとき、大拝殿の一隅に面白いものを発見した。「談山神社御祭神藤原鎌足公御裔・藤原氏族一覧」なる小冊子。開いて見ると、ミ行に「三林」の名もある。


話の種にと、200円の寸志を置いて入手。じっくり見てみると何のことはない、そんじょそこらにある氏名のオンパレード。日本人は十中八、九「藤原氏族」になる趨勢。どうやら崇敬者として把握されたらこの名簿に登録されるらしい、というのが吾輩の結論。後日、事務所の山崎さんにこの一覧を見せたら眼を光らせてヤ行を睨み、「ヤッタぁ」と奇声を発した。「鎌足公御裔・藤原氏族一覧」の権威が完全に失墜した瞬間だった。話の種にはなった。

2011年6月10日金曜日

2006-1-22 柿田川湧水群

柿田川には感動させられる。富士山に降った雨や雪が地下に滲み伏流水となって10年、山麓のあちこちで湧水群となって湧き出す。中でも大規模なのが、柿田川湧水群。柿田川は突如ここから始まる。上流はない。湧水群
湧水
湧水群
湧水
下流へ向かう柿田川。1.2km先で狩野川に合流する。川の水はすべて湧水だけで成る。

6/10(金) 週末到来

この齢(64歳)になると時の流れは速い。年々加速度がつく。昨日京都奈良を走っていた気がするのにもう週末。今週末は天気が好くないそう。それでも勿論出かける。何処へ行くか、それは未定。どなたか、ここへ行ってきて探訪写真レポートを載せて欲しいという方は居ませんかねぇ。コメント欄に要望を書いて貰えれば検討致します。今、吾輩の心に懸かっている史蹟は、鞍馬寺「奥ノ院」。中でも奥ノ院入口にある霊宝館の毘沙門天像。重文が三体あるらしい。鞍馬寺の本尊は毘沙門天。鞍馬寺へは何度か行ったが、奥ノ院ルートは疲れそうで遠慮していた。しかし、毘沙門天像にお目にかからなくては鞍馬寺に行ったことにはなるまい、と思い至った。毘沙門天像を本尊としているもう一つ有名な寺院は信貴山・朝孫護寺。ここは秘仏化されていて拝見できない。つまらん。

2011年6月9日木曜日

2007.3.5 信州上田市「無言館」

もう4年も前のこと、女房と信州上田市の「戦没画学生慰霊美術館・無言館」を訪れた。館主・窪島誠一郎氏の至高悲痛な設立趣旨に打たれた。道案内が乏しくて到達するのに難渋した記憶がある。吾輩も絵を描きだしていた。それも人生の舵を芸術の方に切る覚悟で。だから、戦没画学生の無念さは痛切に分かった。それにしても、館主の戦没画学生の遺作の蒐集救済供養に懸ける意志情熱は人間のものとは思われなかった。菩薩行に近かろう、そう思えて「無言館」に引き寄せられた。



展示作品の評価については論じても仕方がない。「無言館」は、志半ばで戦地で散らざるを得なかった画学生の無念に対する鎮魂と、戦争とは何であるかを無言で語る場なのだから。
この後、窪島誠一郎氏のことで劇的な報道記事に接して驚かされた。彼は戦時中親と離れ離れになり貰い子として育てられた。その彼が実父と廻り逢えた。実父は作家「水上勉」。劇的。
この「無言館」が、客足が遠のいて経営危機にあるらしい。近々また訪れて、館主の魂・志に触れて来よう。戦没画学生の絵も別の見え方がするかも知れない。