2018年7月8日日曜日

〇7-8(日)《奥の細道》探訪。高岡市での芭蕉一宿の地を探す。「旅籠町」に行き着く。

〇芭蕉と曾良が高岡市で一泊したことは確か。
《曾良随行日記》先ずは隆君の現代語訳「14日、快晴。甚だ暑い。別れ道で富山へ向かわずに(滑川から1里程来て、川を渡ると(←この川は常願寺川)富山へ行く別の道がある)、3里行くと、東石瀬野(渡し場がある。大川である←この川は神通川)、さらに4里半行くと、放生津(ほっしょうづ)八幡神社がある(渡し場がある。甚だ大川である←この川は庄川。半里ばかり)。氷見へ行こうとしたが、行かなかった。高岡へ出た。2里あった。那古の浦・二上山・石瀬野等を見た。高岡に午後3時半頃に着いて宿をとった。翁の気色がすぐれなかった。猛暑だった。実に不快。15日、快晴。高岡を立った‥‥」
次に原文。「○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計)。 氷見へ欲レ行、不レ往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。不快同然。
〇十五日 快晴。高岡ヲ立 。‥‥」
〇高岡の何処に泊まったかについて手掛かりはない。奥の細道の旅は、芭蕉が旅先で俳友・門人を訪ね歩く旅でもあった。連泊した地は、そのような人達を訪ね当てた地だった。高岡はそういう地でなかった。滑川から酷暑の中をようようにして辿り着いた単なる宿泊地だった。となると、高岡での宿泊地は「旅籠町」の名に往時の面影を残すあたりと見るのが妥当だろう。
そこで今日高岡の中心街に出る所用があったので「旅篭町」を訪ねてみた。初めは見当がつかなかったが、色々な人に聞き訊きしながら探訪して遂に辿り着いた。
↓向こうに鳳凰橋が見える。この橋の相当手前を左に入ると旅篭町があると教えてくれた人がいた。
 橋の中央に向き合って鳳凰がいる。
 ↓橋の手前の小路に当てもなく入ってみた。行くと家の前に老人と老女が坐って話していたので旅篭町が今もありますかと問うと、行き方を教えてくれた。今も町はあるのだ。御礼を述べたら「ご苦労さん」の言葉が返ってきた。写真の小路をもっと行って左に入り、一つ目の十字路を右に折れる、そして真っ直ぐに行くとお宮さんがある、その宮の前を左に折れて行くとそこが旅篭町だそう。
 ↓言われた通り小さな十字路で右折してどんどん行くとかなり来たところでお寺があった。目印に撮影。
 ↓さらに相当な距離を歩いて行くと、あぁ嬉しや、神社があった。「川巴良諏訪神社」。「川巴良」は「かわはら・川原」だろう。
 ↓神社の前を左にカープして行く街並。
 ↓「ハタゴ町」であることを確認。「旅篭町」だ。
 ↓大通りからこの神社に至るには「川原本町」交差点から入るのが正解だった。
〇「奥の細道紀行」の未解決課題がまた一つ減った。

2018年7月5日木曜日

〇《イザベラバード紀行》5-3(木)(2)阿賀市津川町「狐の嫁入り」行事

〇津川町は西会津と越後の国境をなす山々の中にあってその地方の中核をなす町。阿賀野川の畔にあり、往時は日本三大河港の一つに数えられた河港が開けていた。その津川の街に入ると、当日は祭礼の日だった。その祭礼というのが「狐の嫁入り祭」。街のあちこちに狐像が立ち、到る所でキツネ顔に扮装した人々に出くわす。町中狐の嫁入り行列の準備で慌ただしい。
↓ある店先にこのポスターが貼ってあった。ボクが立ち止まってじっと眺めていると店のおばさんが「このポスター、欲しいですか。上げますよ」と声を掛けてくれた。望外の申出に喜んで「お願いします」と頼むと、くるくる丸けて折から小雨模様だったのでしっかり包装してくれた。
↓嫁入りする狐のこの女性の鼻の下には髭が左右にビンビンとはねるように描かれているんだが写真ではよく見えない。手も狐の手つき。
↓小学生が作った狐のモニュメント
↓街角に恒常的に立つ狐の石造。




↓町中、狐の嫁入り行列を迎える準備の真っ最中。
「狐の嫁入り」の旗
↓ここが町の中心らしく、行列を観覧するための陣取り合戦中。
〇道行く人たちが老いも若きも狐の面相のメイクをしている。観光客の若い女性までが狐の顔になっている。300円でメイクをしてくれるそう。普段こんな面相の人達が行き来していたらこの街は変と思うが、祭礼の日と知れば面白いと思えるところが面白い。


街のはずれ近くに来ても何となく浮き足立っている。行列はこの通りも通るそう。
↓住吉神社。ここで狐の嫁入り儀式が行われる。


〇イザベラバードは津川から新潟まで舟便で阿賀野川を一気に下って行った。ボクは磐越自動車道で一気に新潟までハリアーを走らせた。そして新潟中央区から下道に下り胎内市築地(ついぢ)を目指したが、すっかり日が暮れてしまった。暗闇を進んでも仕様がないと思っていたら「道の駅・豊栄(とよさか)」の案内が出たのでそこに入りこんだ。その夜はそこに泊まった。

2018年7月4日水曜日

〇《イザベラバード紀行》5-3(木)(1)小雨。南会津・下郷で「塔のへつり」「大内宿」観光、坂下(ばんげ)で「鳥追観音」「大山祇神社」参拝、阿賀市津川町でイザベラがそこで乗船した川港跡を探訪

〇朝8時に起き、8時半に出発。南会津の田島、下郷の町を経由して「塔のへつり」に到着。奇景。イザベラはここを訪れていないが折角だから寄ってみた。
〇下郷町から山また山を越えて大内宿に入った。ここでイザベラは一宿した。




〇大内宿から西会津の盆地に出るには山深い峠を越える。峠を下ると会津盆地が開ける。大平原。北東に磐梯山、西北遥か彼方に飯豊連峰が白雪を冠して浮かんでいる。西会津の坂下(ばんげ)に出る。坂下の旧市街を走ってみる。坂下は西会津の中心都市でかなり大きい町だが、国道バイパスに車・人の流れを奪われてすっかり寂れている。少し寄り道して鳥追観音と大山祇神社を再訪。






〇坂下から越後街道はずっと西会津の山道にかかり、イザペラにとって阿賀野川の河港のある津川に辿り着くまでの旅程は四苦八苦の連続だった。雨に降られた上に宿場が貧弱で馬・馬子の調達ができない。苦難の頂点は阿賀町宝坂(ほうさか)辺り。牛しかおらずその背にもたれた。ボクはわざわざ旧越後街道に入りイザベラバードが苦難に遭遇した街道現場を探し廻った。宝坂の在所はあった。山道・地形は思ったほど急峻ではない。
↓「旧越後街道 →白坂宿 ←川谷」
 ↓「西会津町宝坂 ここは白坂です」 小さな宿場で馬や馬子を余裕を持って配備する力はなかったかも知れない。
 ↓川谷(坂下方面)の旧越後街道
 ↓白坂宿。この先、道はほぼ消滅し、無理して進むと国道バイパスに合流する。
〇阿賀町津川で、イザベラは舟便を頼り一気に新潟まで下る予定であり実際そうした。その乗船箇所である河港の地に立ちたかった。ところが地元の人でさえもうかつて存在し、日本三大河港として盛名を博した津川の河港の事を知らない。舟便は意外に早くに途絶え、隆盛を誇った河港は三世代ほど前には廃港となったらしい。とある老人が「この川沿いの道を辿って行けば跡があるかも知れない」と言ってくれたのでとにかく歩き出した。細く頼り無い道だった。そのうち何やら河港跡だと思えばそうと見えないこともないという川べりに着いた。到底日本三大河港跡には見えない。津川の住人のほとんどがかつて河港があったことさえ知らないのも無理はない。
↓河港跡らしき所に辿り着く。



↓「日本の三大河港 岡山県旭川:千葉県利根川:新潟県阿賀野川」


↑↓古絵図に描いてある船着場がここらしい。「小野戸船着場」




    
  
  ↓小野戸船着場から数十m下流に行くと、もう一つの船着場があった。

↓「大船戸」河港跡
 〇イザベラバードの紀行文の一節が認められている。
《津川を出ると間もなく、川の流れは驚くべき山々にさえぎられてるように見えた。山塊はその岩の戸を少し開けて私たちを中に通し、また閉じてしまうようであった。露骨さのないキレーンであり廃墟のないライン川である。しかもそのいずれにもまさって美しい。》

 ↑↓古絵図の景色はここであろう。
  〇津川の街は、今日が「狐の嫁入り」行事の当日だった。嫁入り行列が街中を練り歩くそうで、その準備の真っ盛りだった。そのことは、次回に紹介する。