2009年7月25日土曜日

奥田憲三先生の形見の”赤い上着”

奥田憲三先生は200333日に亡くなられた。

Saturday, June 28, 2003

 この日、金沢市弥生町の故奥田憲三先生の自宅(奥田奈々子さん方)に伺い先生の絵二点(画業60年回顧展で購入)を受領してきた。奥田奈々子さんに謹呈を約束していた『奥田憲三先生の思い出』(最新版)3冊を徹夜で用意して持参した。

金沢市弥生町の迷路の様な住宅街をウロウロしていたら奥田奈々子さんが(多分家が分らなくて難渋していると案じて)(探しに)出て来てくれた。家の表札は『奥田憲三 一水会事務所』となっていた。家の中は大工さんが入ってアトリエをはじめ家中「足の踏み場もない」状態。奈々子さんに二階のアトリエから始めて家中案内して貰った。奥田先生のアトリエに僕はとうとう立った。アトリエの(唯一の)窓(明かりとり)に僕が目を遣っていると奈々子さんは(僕の関心を察して)「北向きです」と説明してくれた。さらに二階の倉庫、一階の倉庫の順に巡った。先生の絵や蒐集資料で溢れ返ったその雑然振りは半端でなかった。画業60年の年期が入った雑然振り(先生の頭の中では整理整頓=秩序化されていたんだろう)。奈々子さんが整理するには年単位の時間がかかろう。一階倉庫の隣が仏間。そこに入ると奥田先生の肖像写真が飾ってあった。御遺体は金大医学部に解剖実習用に献体されて未だ遺骨になっていない。奈々子さんが問わず語りに「遺骨がないので未だ父が死んだ実感がしないのです」。その遺影の前に坐り焼香。焼香後よく見ると肖像写真はその真後ろに飾られたP10号の風景画二枚に挟まれている(まるで本尊が脇侍仏に挟まれているよう)。そして何とその二枚の風景画は、先生最後の写生旅行(H14春、丹霞郷・戸隠・妙高高原)のとき僕が先生に進呈したP10号キャンバス二枚に先生が描かれた絵。その写生旅行二日目戸隠キャンプ場で奥田先生は、ここの景色は絵になる要素が総て揃っている、10号位で描かないと……と言われたので(にもかかわらず先生は今回体力気力の衰えを自覚されたのか小品キャンバスしか持参しておられなかったので)僕は背負っていた二枚のP10号キャンバスのうちの一枚の進呈を申し出た。先生は慎み深い方だがそのとき僕の申し出を快く受け容れて下さった。先生は(余程)大きな画面で画く意欲が湧いていたんだろう。翌日妙高高原いもり池の写生地でも僕は残り一枚のP10号キャンバスの提供を申し出た。やはり先生は嬉しそうに受け容れて下さった。その二枚のキャンバスに描かれた絵に再会して僕の目は輝いた(に違いない)。「このP10号の絵がやっぱり先生の絶筆になったんですか」そう僕が問うと奈々子さんは肯いた。そして彼女の口から予想もしなかった言葉が出た。「父は三林さんにキャンバスのお金の清算をしなかったんでしょう。この二枚の絵のうち好きな方を一枚お取り下さい。父も三林さんが受け取ってくれれば喜ぶと思います」。僕は思った――自分で好きな方を選ぶべきでない、遺族が先ず選択し僕は残りを有り難く頂戴しよう。そう申し出ると奈々子さんは(結局)『妙高高原いもり池畔』の絵を選択した。僕は『戸隠キャンプ場』の絵を頂戴した。『妙高高原いもり池畔』の絵は先生の正真正銘の『絶筆』(最終最後の写生)であり、『戸隠キャンプ場』の絵はその前日に描かれた。『戸隠キャンプ場』では僕は先生の隣りで描いた。これには逸話がある。新田緑さんが関わる。彼女、(成り行きで奥田先生の隣りで描く仕儀になったが)先生の真横では威風を感じて画き難いらしくどうしても僕に奥田先生の隣りに(彼女と先生の中間に)坐れと言う。そして態々別の所に置いてあった僕の大きくて重い道具を担いで持って来て僕に坐って欲しい場所に据えた。「僕は風圧避けのフードのようなものか」と冗談を言うとそのとおりだそう。僕は緑さんの望むとおりの位置を占めたが、それは僕の本望でもあった。僕が奥田先生の真横に坐ったとき、新田緑さんは「奥田先生より上手に描いたら駄目ねんよ」と(恐るべき)冗談を言った。僕は「(先生の前で)そんなことを言えるようなら風圧避けは要らんでしょう」と応えた。奥田先生は苦笑するばかりだった。

 こうして奥田先生畢生の絵の一枚が「父が喜ぶ」という奈々子さんの決裁で僕の手中に帰した、信じられない。奈々子さんと重子さんが醸し出す世界はやっぱり奥田先生的(感動的)。僕が先生の通夜の時、奈々子さんを初めて目にした時に直感したことは当たっていた。以下は通夜の夜の日記から。

通夜の席。遺族(子供)が3人並んでいた。(奥田先生の祭壇に近い方から)順番に、長男・陽児氏とその奥さん、先生を最後まで看病したという娘さん、そしてもう一人の娘さん。長男の遺族代表挨拶はチョット変だったが(画家としての奥田憲三を知らな過ぎた)、その兄からマイクを渡されてそれが当然の如く説明に立った妹(娘)さんの自然な振る舞いもチョット変と言えば変だった。そんなことはどうでもよくて、三人の子供達のうち真ん中に立つ娘さんが奥田先生に姿形も顔立ちもそして見せる表情仕草までもソックリなのに僕は感銘を受けて通夜の席で彼女を観察し続けた。この妹(娘)さん――これはもう(見れば見るほど)奥田先生の生き写し(顔立ちもソックリだが、心の表し方(表情)までがソックリ)。僕は思った――彼女はきっと絵が好きだろう、絵描きが好きだろう、父が大好きだろう。散会になりこの妹(娘)さんが出入口近くに立っていた。坂井信子さんが僕を彼女に紹介してくれた。話してみて彼女は、父=画家・奥田憲三を知る者に出会うこと――ただそれだけで十分な喜びを得られる人であることが分った。彼女と話す機会が出来て嬉しかった。奥田先生を永遠に失った悲しさ(心の空洞)が多少癒され(埋められ)たような気がした。この世で未だ奥田先生との絆が完全に失われたと決まったもんじゃない。悲しかったが、最後にちょっぴり嬉しくもあった奥田先生のお通夜だった。

この妹()さんが奥田奈々子さん。

 やがて仏間から居間に案内された。ここだけが(普通の、物や資料に埋まっていない)居住空間という感じ。冷えた抹茶をガラスコップで戴きながらここでひとしきり話した。最後に何と奥田憲三先生の形見の「赤い上着」を頂いた。望外の待遇。先生は絵を描くとき赤の上着を常用したがその一枚だそう。この先生の形見の「赤い上着」を戴いた時の感動は幾ら言葉を連ね重ねても書き留められるものではない。以後僕の写生旅行にはこの「赤い上着」が守り本尊の様に憑いて回り僕の車の助手席シートに掛けられて鎮座ましますことだけを記しておく。

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