2009年7月27日月曜日

赤は誰が見ても赤か?感ずる色は人それぞれに違う

人が絵を描くと人それぞれで千差万別の絵になる、一つとして同一の絵にならない。同一でないどころかその差異たるや実に大きい。構図・構成の違い、色の違い、明るさの違い、形の違い、何から何まで違う。上手下手・洗練稚拙の違いも勿論ある。しかし最後の点の違いは表現力・技術の差異であり、これから僕が論じようとする視覚感覚の差異ではない。

僕は本格的に絵の勉強に取り組んでからも(50歳頃までは)人が視覚で感ずる対象の色や形は万人に共通で同一だと信じていた。何故なら視覚の前に提示されている対象は万人に共通同一であり、視覚は神経生理学(科学)の世界に所属する、だから人によって差異が生ずる余地は殆どないと考えていた。しかし50歳頃からやっとそうではないことに気付いた。

「彩の会」で永年一緒に絵を描いてきた会員達が同じ風景、同じモデルを描いても各人で色や形が全然違うように表現される。僕が他人の画面の色や形に手を入れるとその人は僕の見え方(色や形)を理解はする。しかしその人は自分の見る色や形に直ぐに復帰する(従う)

今思い返すと裕(双子の弟)がかつて意味深長な言葉を吐いた。小さい頃から裕と僕の絵は双子なのに相当違う。最も違う点は色。僕の絵は彩度が高いが、裕の絵は彩度が低い(グレイ調、奥田憲三先生が大家の様な絵と評したことがある)。裕があるとき僕の絵を見ながら言った、「隆にはこんな色に(彩度の高い色に)見えているんだろうなぁ」。今思うと裕は、自分には世界はそんなに鮮やかな色相には見えないんだがなぁ、と言ったのだ。裕と僕は一卵性双生児として一緒に育てられたから、それぞれの視覚を形成し活用する資質や環境は誰よりもよく似た条件を与えられて成長した筈。その二人にしてこの違いがある。

奥田憲三先生が写生旅行作品の展覧会で僕の絵の前で立ち止まり、「この人は色に迷いがない」と評したと人が教えてくれた。確かに僕には自分の色の見え方があるので迷いようがない。他の人は色の見え方に迷いがあるということか。

人の目の網膜には、暗所でも明るさを敏感に感ずる(暗所視)桿体細胞(約1億2000万個)と明所で色を感ずる(明所視)錐体細胞(約600万個)がある。網膜の中心窩の周りの小円部分は黄斑と言われ錐体細胞が集中密集している。

錐体細胞は黄斑を外れれば又その周辺から遠ざかるにつれ激減する。桿体細胞は黄斑の周辺に広く遠く分布する。対象に注目するということは黄斑に出来るだけ見ようとする像を結ばせようとすることを意味する。しかし(以下余談)それはカメラの様にピントを合わせることではない。普通、カメラと眼の構造機能は同一視されて網膜に結ぶ像は倒立し且つ左右逆転していると説明される。そして倒立・逆転現象を正常化するのは視覚情報を処理する大脳の役割だと説明する。しかし網膜像は倒立していなければ左右逆転してもいないだろう。眼とカメラは構造も機能も同一ではない(以上余談)。黄斑に集中密集する錐体細胞には三原色(赤・黄(緑)・青)を感ずる三種類があるそう(赤錐体細胞・緑錐体細胞・青錐体細胞)。この三種類の錐体細胞の活性化・鎮静化の調整・統合によって眼は自然界の無限の色を感ずることになる。人によって千差万別の色の感じ方が発生する根拠はここにある。(続く)

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