2009年7月24日金曜日

風景画の師匠・奥田憲三先生

奥田憲三先生との出会い

平成6年春、初めて「石川一水会」写生旅行に「一般参加」。

428日夜、バスで金沢香林坊発、信州安曇野に向けて途中バス中で睡眠。

429日早朝、大峰高原(大町市)に到着。高原で一日中描いた。「大峰高原プチホテル・サンホリデー」で宿泊。晩「研究会」、初めて会う奥田先生に昼間描いた絵を「絵になっておる」と褒められた。

4月30――この日は記念すべき日となった。

先ずは大峰高原でのこと。早朝(05:3007:30)山上が快晴で北アルプスが余りに綺麗なので(大峰高原プチホテルの)朝飯前の一仕事とばかりに画いていると、モチーフを取材して回っていた奥田憲三先生が何時の間にか真後ろに立っていた。そして「早起きは三文の徳と言いますねぇ」との言葉を残して立ち去った。遠くで奥田先生が随行者に「あの人は上手い」と話しているのが聞こえた。

プチホテルでの朝食後一行はバスで池田町美術館へ移動し、着くや否や早速散って画き始めた。僕が(バスの中から見当をつけていた)「有明富士」を正面に見据える丘の小道の丁字路に逸早く腰を据えて用意していると、奥田先生が数人の伴を連れてモチーフの取材に回って来た。そして既に腰を据えて用意にかかっている僕を見て、それが(今朝早く大峰高原で「三文の徳」で描いていた)七尾から来た新参一般者であることに気付かれた時、次の言葉が先生の口を突いた。「驚きましたねぇ、君は七尾から今日初めて来てここに坐りましたか。ここが一番絵になるところですよ。イヤ驚きました。何よりもここに坐った決断が素晴らしい。初めて来たときはなかなか決断できないものです。」――そう言って随行者と共に立ち去った。去って行きながらまだ「イヤ驚きました。世の中には末恐ろしい人がいるもんですねぇ」とお伴に話しているのが聞こえた。それから20分程してまた奥田先生が現われた、今度は独りで絵の道具をガラガラ言わせて引いて来て。そして「お仲間に入れて貰いますよ」と言いながら僕の真ん前で用意をして描き始めた。望外の好運が眼前に現出。僕の目の前で先生は「10号」「3号」「10号」と三枚の絵を手際段取良く画かれた。それを僕は黙って一日中観察した。先生は動機・構成を大事にし、形・調子をじっくり(正確に)整えて、最後一気に仕上げに懸かる――この過程・手際・段取の洗練された見事さ、僕は目が洗われた。芸術的心が出来上がり・美術的目が開かれている――そうでなければ描けない絵を画く・本物の画家(えかき)に出会えた日だった。このとき先生が(目の前で)手がけられた三枚の絵が(その制作過程が)僕の心の中でその後風景画の原点(原画)になっている。この日奥田先生と初めて会話したのは先生が道端に坐り込んで昼食を摂っているとき。「八野田さんはいつから癌だと分っていたんですか?」と訊いてこられた。八野田先生に肝臓癌が発見されたのは二年程前だったが手遅れだったので家族は告知せず先生は死ぬまで癌だと知らなかった。僕は、長男が七尾で医院開業準備を進めていたこと、八野田先生はその開業を心待ちしていたことを話した。奥田先生は「八野田さんはさぞかし心残りだったでしょうなぁ」と感想を述べられた。僕は言わずもがなのことを言った、「私が八野田先生に教わったのは晩年の数年間でしたが、絵描きとは何か――それをまざまざと思い知らされました。八野田先生はただただ絵を描きたかったんですねぇ。癌が発見されてからも描き続けられましたが、好きだからこそできたと思います」。奥田先生は黙って(僕の目を見ながら)聴いておられた。そして訊かれた。「八野田さんの指導していた絵のグループはどうなっておりますかな?」僕の答えはこうだった。「私は、山中さんと加地さんの主導権争いが表面化して結局会が消滅するんじゃないかと心配していました。しかし二人とも(八野田先生の薫陶を受けて)やっぱり絵を描くのがただただ好きな人達だったんですねぇ。加地さんは「彩の会」、山中さんは「北国文化センター」「グループ虹」と(八野田先生の意向を踏襲して)仲良く棲み分けています。絵のグループはいずれも前の通りに活動しています。私はホッとしています」。奥田先生はホウホウという顔付で黙って聴いておられた。

この日は大町温泉「唐松荘」で宿泊。晩の研究会で早朝大峰高原で画いた絵を奥田先生に褒められた。夕方の懇親会で僕はカラオケ(信濃川慕情)を歌ったが奥田先生はそれと絡めて「カラオケもうまいが絵も上手い」と冗談風に言い、冗談ついでに「今日一日お付き合いしましたが(始め)話し掛けても返事もせずに描いている。唖の人かと思っていたら(後で七尾の)加地さんに(あの人は何者かと)訊くと弁護士さんだという、意外でした。」と話した。

51日午前木崎湖畔で奥田先生の傍で描いた。何度も何度も先生の絵を見に行った。前日(池田町美術館前)に続き目を瞠らされた。先生の絵の制作過程が如実に見分できることが実に有難くまた楽しかった。これで写生旅行は終わりを遂げたが、僕にとっては人生を画する一大事の旅行となった。画家・奥田憲三先生の真髄に接する(迫る)手掛かりを得た。望外の事。

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