2009年7月30日木曜日

チェロを弾く女性像――途中


「彩の会」でモデルを描いてきた。
過日坂井信子さんが金沢から会に出戻ってきたが、ここしばらく姿を見せないと思っていたら入院していたそう。そうと知らず僕はお見舞いにも行かなかったが、退院の「内祝い」に彼女が沢山持参した「どら焼き」(金沢銘菓)をパクパク人一倍食いながら描いた。持病(糖尿)を忘れはしないが、食べた。乙なひと時!(^^)!

2009年7月27日月曜日

赤は誰が見ても赤か?感ずる色は人それぞれに違う

人が絵を描くと人それぞれで千差万別の絵になる、一つとして同一の絵にならない。同一でないどころかその差異たるや実に大きい。構図・構成の違い、色の違い、明るさの違い、形の違い、何から何まで違う。上手下手・洗練稚拙の違いも勿論ある。しかし最後の点の違いは表現力・技術の差異であり、これから僕が論じようとする視覚感覚の差異ではない。

僕は本格的に絵の勉強に取り組んでからも(50歳頃までは)人が視覚で感ずる対象の色や形は万人に共通で同一だと信じていた。何故なら視覚の前に提示されている対象は万人に共通同一であり、視覚は神経生理学(科学)の世界に所属する、だから人によって差異が生ずる余地は殆どないと考えていた。しかし50歳頃からやっとそうではないことに気付いた。

「彩の会」で永年一緒に絵を描いてきた会員達が同じ風景、同じモデルを描いても各人で色や形が全然違うように表現される。僕が他人の画面の色や形に手を入れるとその人は僕の見え方(色や形)を理解はする。しかしその人は自分の見る色や形に直ぐに復帰する(従う)

今思い返すと裕(双子の弟)がかつて意味深長な言葉を吐いた。小さい頃から裕と僕の絵は双子なのに相当違う。最も違う点は色。僕の絵は彩度が高いが、裕の絵は彩度が低い(グレイ調、奥田憲三先生が大家の様な絵と評したことがある)。裕があるとき僕の絵を見ながら言った、「隆にはこんな色に(彩度の高い色に)見えているんだろうなぁ」。今思うと裕は、自分には世界はそんなに鮮やかな色相には見えないんだがなぁ、と言ったのだ。裕と僕は一卵性双生児として一緒に育てられたから、それぞれの視覚を形成し活用する資質や環境は誰よりもよく似た条件を与えられて成長した筈。その二人にしてこの違いがある。

奥田憲三先生が写生旅行作品の展覧会で僕の絵の前で立ち止まり、「この人は色に迷いがない」と評したと人が教えてくれた。確かに僕には自分の色の見え方があるので迷いようがない。他の人は色の見え方に迷いがあるということか。

人の目の網膜には、暗所でも明るさを敏感に感ずる(暗所視)桿体細胞(約1億2000万個)と明所で色を感ずる(明所視)錐体細胞(約600万個)がある。網膜の中心窩の周りの小円部分は黄斑と言われ錐体細胞が集中密集している。

錐体細胞は黄斑を外れれば又その周辺から遠ざかるにつれ激減する。桿体細胞は黄斑の周辺に広く遠く分布する。対象に注目するということは黄斑に出来るだけ見ようとする像を結ばせようとすることを意味する。しかし(以下余談)それはカメラの様にピントを合わせることではない。普通、カメラと眼の構造機能は同一視されて網膜に結ぶ像は倒立し且つ左右逆転していると説明される。そして倒立・逆転現象を正常化するのは視覚情報を処理する大脳の役割だと説明する。しかし網膜像は倒立していなければ左右逆転してもいないだろう。眼とカメラは構造も機能も同一ではない(以上余談)。黄斑に集中密集する錐体細胞には三原色(赤・黄(緑)・青)を感ずる三種類があるそう(赤錐体細胞・緑錐体細胞・青錐体細胞)。この三種類の錐体細胞の活性化・鎮静化の調整・統合によって眼は自然界の無限の色を感ずることになる。人によって千差万別の色の感じ方が発生する根拠はここにある。(続く)

2009年7月25日土曜日

奥田憲三先生の形見の上着を着込んで写生旅行に

20031029()

「奥田奈々子様。ご無沙汰していますが、お元気ですか。

私は、この週末(2003/10/25()26())写生旅行に行ってきました。今秋最初の写生でした。奥田憲三先生の形見の赤い上着(頂戴したあの上着)を着用して写生したのです。

赤い上着を着ながら、先生と一緒にその傍で描いたことのある思い出のポイントばかりを巡りました。土曜日は午前に白馬村大出へ、午後は中綱湖畔へ、そして日曜日は妙高高原いもり池へ行って描きました。都合三枚描きました

信州・白馬大出(F10)

信州仁科三湖・中綱湖(F6)

新潟県妙高高原・いもり池(F10)

三枚とも派手な絵になりました。奥田先生の上着を着ていたのに絵は先生風とかけ離れてしまいました。奥田先生の傍で描いていたとき僕は先生のキャンバスに置かれていく色々のグレイの諧調の美しさ見事さに心を捉われていました。先生と僕のパレットが(そこに並べられた絵の具の色が)根本的に本質的に違っていたにも拘らずです(先生の絵の具はグレイ系が多かった。僕の絵の具は八野田先生の教えどおり原色系)。それが、奥田先生が亡くなられた途端に僕の絵はパレット通りの派手な(原色的な)絵になってしまいました(何だか格調が低そう)。元の木阿弥って感じです。良くも悪くもこれが僕らしい絵なんだ――そう思わざるを得ません。奥田先生もこう言って下さると思います。「三林さん、君は君らしく描きなされ。君には君の色がある。僕の真似はしなさんな」。これからも奥田先生のことを決して忘れず、しかし奥田先生の絵に囚われず、僕は僕なりの絵を描いていこう、そう思った写生旅行でした。

以上、報告終わり。お元気でお過ごし下さい。

描いた三枚の絵のデジカメ写真を付けておきます。いずれも、奥田先生がじっくり観察して味わっておられた風景です。」

115日。奥田奈々子さんからメールが来ていた。

『久しぶりにお仕事を離れ、どんなに楽しく過ごされたことでしょう。 どの絵からも、その時その場の清々しい空気、そっくりそのまま届けていただいているようで、見入ってしまいます。 その後、ご無沙汰しております。 今日は、一水会金沢展の初日、出かけたいと思います。 父を失った同じ年に、松下久信さんが日展特選をとられ、どんなに喜んだことか・・と思うと、残念にも思いますが、もしかしたらきっと、あちらの世界から、○○してくれたのかも・・・。 三林さんのすばらしい絵を父の祭壇に飾ります。「ほーほー」と長く長く見入って味わっていることでしょう。 本当にありがとうございました。 奥田奈々子』

奥田憲三先生の形見の”赤い上着”

奥田憲三先生は200333日に亡くなられた。

Saturday, June 28, 2003

 この日、金沢市弥生町の故奥田憲三先生の自宅(奥田奈々子さん方)に伺い先生の絵二点(画業60年回顧展で購入)を受領してきた。奥田奈々子さんに謹呈を約束していた『奥田憲三先生の思い出』(最新版)3冊を徹夜で用意して持参した。

金沢市弥生町の迷路の様な住宅街をウロウロしていたら奥田奈々子さんが(多分家が分らなくて難渋していると案じて)(探しに)出て来てくれた。家の表札は『奥田憲三 一水会事務所』となっていた。家の中は大工さんが入ってアトリエをはじめ家中「足の踏み場もない」状態。奈々子さんに二階のアトリエから始めて家中案内して貰った。奥田先生のアトリエに僕はとうとう立った。アトリエの(唯一の)窓(明かりとり)に僕が目を遣っていると奈々子さんは(僕の関心を察して)「北向きです」と説明してくれた。さらに二階の倉庫、一階の倉庫の順に巡った。先生の絵や蒐集資料で溢れ返ったその雑然振りは半端でなかった。画業60年の年期が入った雑然振り(先生の頭の中では整理整頓=秩序化されていたんだろう)。奈々子さんが整理するには年単位の時間がかかろう。一階倉庫の隣が仏間。そこに入ると奥田先生の肖像写真が飾ってあった。御遺体は金大医学部に解剖実習用に献体されて未だ遺骨になっていない。奈々子さんが問わず語りに「遺骨がないので未だ父が死んだ実感がしないのです」。その遺影の前に坐り焼香。焼香後よく見ると肖像写真はその真後ろに飾られたP10号の風景画二枚に挟まれている(まるで本尊が脇侍仏に挟まれているよう)。そして何とその二枚の風景画は、先生最後の写生旅行(H14春、丹霞郷・戸隠・妙高高原)のとき僕が先生に進呈したP10号キャンバス二枚に先生が描かれた絵。その写生旅行二日目戸隠キャンプ場で奥田先生は、ここの景色は絵になる要素が総て揃っている、10号位で描かないと……と言われたので(にもかかわらず先生は今回体力気力の衰えを自覚されたのか小品キャンバスしか持参しておられなかったので)僕は背負っていた二枚のP10号キャンバスのうちの一枚の進呈を申し出た。先生は慎み深い方だがそのとき僕の申し出を快く受け容れて下さった。先生は(余程)大きな画面で画く意欲が湧いていたんだろう。翌日妙高高原いもり池の写生地でも僕は残り一枚のP10号キャンバスの提供を申し出た。やはり先生は嬉しそうに受け容れて下さった。その二枚のキャンバスに描かれた絵に再会して僕の目は輝いた(に違いない)。「このP10号の絵がやっぱり先生の絶筆になったんですか」そう僕が問うと奈々子さんは肯いた。そして彼女の口から予想もしなかった言葉が出た。「父は三林さんにキャンバスのお金の清算をしなかったんでしょう。この二枚の絵のうち好きな方を一枚お取り下さい。父も三林さんが受け取ってくれれば喜ぶと思います」。僕は思った――自分で好きな方を選ぶべきでない、遺族が先ず選択し僕は残りを有り難く頂戴しよう。そう申し出ると奈々子さんは(結局)『妙高高原いもり池畔』の絵を選択した。僕は『戸隠キャンプ場』の絵を頂戴した。『妙高高原いもり池畔』の絵は先生の正真正銘の『絶筆』(最終最後の写生)であり、『戸隠キャンプ場』の絵はその前日に描かれた。『戸隠キャンプ場』では僕は先生の隣りで描いた。これには逸話がある。新田緑さんが関わる。彼女、(成り行きで奥田先生の隣りで描く仕儀になったが)先生の真横では威風を感じて画き難いらしくどうしても僕に奥田先生の隣りに(彼女と先生の中間に)坐れと言う。そして態々別の所に置いてあった僕の大きくて重い道具を担いで持って来て僕に坐って欲しい場所に据えた。「僕は風圧避けのフードのようなものか」と冗談を言うとそのとおりだそう。僕は緑さんの望むとおりの位置を占めたが、それは僕の本望でもあった。僕が奥田先生の真横に坐ったとき、新田緑さんは「奥田先生より上手に描いたら駄目ねんよ」と(恐るべき)冗談を言った。僕は「(先生の前で)そんなことを言えるようなら風圧避けは要らんでしょう」と応えた。奥田先生は苦笑するばかりだった。

 こうして奥田先生畢生の絵の一枚が「父が喜ぶ」という奈々子さんの決裁で僕の手中に帰した、信じられない。奈々子さんと重子さんが醸し出す世界はやっぱり奥田先生的(感動的)。僕が先生の通夜の時、奈々子さんを初めて目にした時に直感したことは当たっていた。以下は通夜の夜の日記から。

通夜の席。遺族(子供)が3人並んでいた。(奥田先生の祭壇に近い方から)順番に、長男・陽児氏とその奥さん、先生を最後まで看病したという娘さん、そしてもう一人の娘さん。長男の遺族代表挨拶はチョット変だったが(画家としての奥田憲三を知らな過ぎた)、その兄からマイクを渡されてそれが当然の如く説明に立った妹(娘)さんの自然な振る舞いもチョット変と言えば変だった。そんなことはどうでもよくて、三人の子供達のうち真ん中に立つ娘さんが奥田先生に姿形も顔立ちもそして見せる表情仕草までもソックリなのに僕は感銘を受けて通夜の席で彼女を観察し続けた。この妹(娘)さん――これはもう(見れば見るほど)奥田先生の生き写し(顔立ちもソックリだが、心の表し方(表情)までがソックリ)。僕は思った――彼女はきっと絵が好きだろう、絵描きが好きだろう、父が大好きだろう。散会になりこの妹(娘)さんが出入口近くに立っていた。坂井信子さんが僕を彼女に紹介してくれた。話してみて彼女は、父=画家・奥田憲三を知る者に出会うこと――ただそれだけで十分な喜びを得られる人であることが分った。彼女と話す機会が出来て嬉しかった。奥田先生を永遠に失った悲しさ(心の空洞)が多少癒され(埋められ)たような気がした。この世で未だ奥田先生との絆が完全に失われたと決まったもんじゃない。悲しかったが、最後にちょっぴり嬉しくもあった奥田先生のお通夜だった。

この妹()さんが奥田奈々子さん。

 やがて仏間から居間に案内された。ここだけが(普通の、物や資料に埋まっていない)居住空間という感じ。冷えた抹茶をガラスコップで戴きながらここでひとしきり話した。最後に何と奥田憲三先生の形見の「赤い上着」を頂いた。望外の待遇。先生は絵を描くとき赤の上着を常用したがその一枚だそう。この先生の形見の「赤い上着」を戴いた時の感動は幾ら言葉を連ね重ねても書き留められるものではない。以後僕の写生旅行にはこの「赤い上着」が守り本尊の様に憑いて回り僕の車の助手席シートに掛けられて鎮座ましますことだけを記しておく。

2009年7月24日金曜日

チェロを弾く女性

昨日の晩「彩の会」でモデルを描いた。主にナイフを使って描いたが、パレットの掃除をしてなくて描き難くて仕方がなかった。パレットを綺麗にしておくことも大事な段取の一つ。

風景画の師匠・奥田憲三先生

奥田憲三先生との出会い

平成6年春、初めて「石川一水会」写生旅行に「一般参加」。

428日夜、バスで金沢香林坊発、信州安曇野に向けて途中バス中で睡眠。

429日早朝、大峰高原(大町市)に到着。高原で一日中描いた。「大峰高原プチホテル・サンホリデー」で宿泊。晩「研究会」、初めて会う奥田先生に昼間描いた絵を「絵になっておる」と褒められた。

4月30――この日は記念すべき日となった。

先ずは大峰高原でのこと。早朝(05:3007:30)山上が快晴で北アルプスが余りに綺麗なので(大峰高原プチホテルの)朝飯前の一仕事とばかりに画いていると、モチーフを取材して回っていた奥田憲三先生が何時の間にか真後ろに立っていた。そして「早起きは三文の徳と言いますねぇ」との言葉を残して立ち去った。遠くで奥田先生が随行者に「あの人は上手い」と話しているのが聞こえた。

プチホテルでの朝食後一行はバスで池田町美術館へ移動し、着くや否や早速散って画き始めた。僕が(バスの中から見当をつけていた)「有明富士」を正面に見据える丘の小道の丁字路に逸早く腰を据えて用意していると、奥田先生が数人の伴を連れてモチーフの取材に回って来た。そして既に腰を据えて用意にかかっている僕を見て、それが(今朝早く大峰高原で「三文の徳」で描いていた)七尾から来た新参一般者であることに気付かれた時、次の言葉が先生の口を突いた。「驚きましたねぇ、君は七尾から今日初めて来てここに坐りましたか。ここが一番絵になるところですよ。イヤ驚きました。何よりもここに坐った決断が素晴らしい。初めて来たときはなかなか決断できないものです。」――そう言って随行者と共に立ち去った。去って行きながらまだ「イヤ驚きました。世の中には末恐ろしい人がいるもんですねぇ」とお伴に話しているのが聞こえた。それから20分程してまた奥田先生が現われた、今度は独りで絵の道具をガラガラ言わせて引いて来て。そして「お仲間に入れて貰いますよ」と言いながら僕の真ん前で用意をして描き始めた。望外の好運が眼前に現出。僕の目の前で先生は「10号」「3号」「10号」と三枚の絵を手際段取良く画かれた。それを僕は黙って一日中観察した。先生は動機・構成を大事にし、形・調子をじっくり(正確に)整えて、最後一気に仕上げに懸かる――この過程・手際・段取の洗練された見事さ、僕は目が洗われた。芸術的心が出来上がり・美術的目が開かれている――そうでなければ描けない絵を画く・本物の画家(えかき)に出会えた日だった。このとき先生が(目の前で)手がけられた三枚の絵が(その制作過程が)僕の心の中でその後風景画の原点(原画)になっている。この日奥田先生と初めて会話したのは先生が道端に坐り込んで昼食を摂っているとき。「八野田さんはいつから癌だと分っていたんですか?」と訊いてこられた。八野田先生に肝臓癌が発見されたのは二年程前だったが手遅れだったので家族は告知せず先生は死ぬまで癌だと知らなかった。僕は、長男が七尾で医院開業準備を進めていたこと、八野田先生はその開業を心待ちしていたことを話した。奥田先生は「八野田さんはさぞかし心残りだったでしょうなぁ」と感想を述べられた。僕は言わずもがなのことを言った、「私が八野田先生に教わったのは晩年の数年間でしたが、絵描きとは何か――それをまざまざと思い知らされました。八野田先生はただただ絵を描きたかったんですねぇ。癌が発見されてからも描き続けられましたが、好きだからこそできたと思います」。奥田先生は黙って(僕の目を見ながら)聴いておられた。そして訊かれた。「八野田さんの指導していた絵のグループはどうなっておりますかな?」僕の答えはこうだった。「私は、山中さんと加地さんの主導権争いが表面化して結局会が消滅するんじゃないかと心配していました。しかし二人とも(八野田先生の薫陶を受けて)やっぱり絵を描くのがただただ好きな人達だったんですねぇ。加地さんは「彩の会」、山中さんは「北国文化センター」「グループ虹」と(八野田先生の意向を踏襲して)仲良く棲み分けています。絵のグループはいずれも前の通りに活動しています。私はホッとしています」。奥田先生はホウホウという顔付で黙って聴いておられた。

この日は大町温泉「唐松荘」で宿泊。晩の研究会で早朝大峰高原で画いた絵を奥田先生に褒められた。夕方の懇親会で僕はカラオケ(信濃川慕情)を歌ったが奥田先生はそれと絡めて「カラオケもうまいが絵も上手い」と冗談風に言い、冗談ついでに「今日一日お付き合いしましたが(始め)話し掛けても返事もせずに描いている。唖の人かと思っていたら(後で七尾の)加地さんに(あの人は何者かと)訊くと弁護士さんだという、意外でした。」と話した。

51日午前木崎湖畔で奥田先生の傍で描いた。何度も何度も先生の絵を見に行った。前日(池田町美術館前)に続き目を瞠らされた。先生の絵の制作過程が如実に見分できることが実に有難くまた楽しかった。これで写生旅行は終わりを遂げたが、僕にとっては人生を画する一大事の旅行となった。画家・奥田憲三先生の真髄に接する(迫る)手掛かりを得た。望外の事。

人物画の師匠・八野田博先生


 芸事は、良い師匠に出会えることが何より。絵の道も同じ。この点、僕の画家(えかき)人生は好運。人物画では八野田博先生、風景画では奥田憲三先生に出会えた。

八野田博先生のこと

 八野田博先生と僕は、この世の縁(えにし)に浅からぬものがあった。初めてお会いしたのは僕が七尾市立袖ヶ江小学校の4年生頃。父母から絵を習うように言われて裕(双子の弟)と一緒に連れて行かれたのが先生の家(国鉄七尾機関区の裏)。毎週日曜日の午前中、二人で画板を下げて通うことになった。どうやら先生が日展に初入選した年のことらしい。七尾に日展作家が出現したのを知った両親が、双子をその先生につかせることを思いついたらしい。二年間ほど通った。晴れた日には、他の塾生ら五、六名と共に先生に引率されて写生に出かけた。雨の日には先生の家の中で(何かを)描いた。七尾港で陽光を浴びながら船を写生したことを覚えている。先生は毎回一人ひとりの絵の裏に数行の講評を書いてくれた。先生の講評は「……であるのが、よい」式で、いつも誰をも好い所を見出して褒めてくれた。多分六年生になって辞めた。七尾市立御祓中学に越境入学したら、美術の先生が八野田先生だった。三年間習った。それから歳月が流れて僕が42歳のとき、裕が「彩の会」に入会した。八野田先生が指導される油彩画の会だそう。丁度僕は絵を描きたくなっていた。夢かと思った。早速僕も入会。先生は、かつて先生の画塾に通っていた双子の少年がそれぞれ「弁護士」と「医者」になってまた先生の指導する絵の会に揃って通いだしたことを悦んで下さった。先生は日展で特選にもなり人物画の(石川県における)大家になっておられた。その画風は一言で「写実の権化」だった。僕は、画家八野田博先生を尊敬しその神髄を学ぼうと努めた(僕の入会後、先生は再度日展で特選になられた)。先生は彩の会で教えられる時、まるで中学の美術教師に立ち返った。黒板にキーワードを書きつけながら講義された。僕に与えられた画家修業用の時間は多くない、それを自覚していたので僕は先生の口を突く一言半句も疎かにすまいと思って聴いた(家に帰って先生の講義録を毎回作った)。そうして思った。先生の講義指導(絵画の要領)は次の諸点に尽きる。①「観察を徹底する」。②「大きく見る」。③「感覚的に描く」。④「構図構成を重視する」。⑤「形が悪い絵に色を塗らない」。⑥「調子を整える」。⑦「色は色相・明度・彩度の三要素から成る」。⑥と⑦は「色価(バルール)」の問題。「色価」は感じ取るもの、そして「色価」を自在に調整調合しパレット画面で操作できなければ絵にならない。そのためには「色彩理論」をマスターすべし。それは難しい理論ではない。何のことはない、かつて中学の美術教室に「色彩理論」が標本図式化されて展示されていた。「色立体」「12or24色の色相環の表」「明度の表」「彩度の表」「補色&対比の表」。要するに「色彩理論」の総ては本当は中学時代に教わっていた。僕はそれらの標本図式を画材店に特注して取り寄せた。僕のアトリエはそれらの標本図式の展示掲示でまるで派手な美術教室になった。僕は特に「補色理論」を重視した。八野田先生の講義指導に「補色理論」が繰り返し登場したし、何よりもゴッホがその絵を意識的に「補色理論」に基づいて(数少ない絵の具で)多彩に描いたことを僕は「ゴッホ書簡全集」を読んで知っていたから。実際、多彩で綺麗な惚れ惚れする(芸術的)グレイを自由自在に作り出し使いこなすことは「補色理論」を身につけて駆使しなければ不可能だろう。こうして僕の頭は八野田先生に感化されて遅まきながら中学の美術教室的様相を呈した。週一回、先生の傍で絵を描くことが楽しかった。時に先生も絵を描かれた。先生が作り出されるグレイはまさに「補色理論」の賜物だった。このままずっと先生の許で絵の勉強を続けていけば、僕にも画家(えかき)人生と言える(司法試験合格で断念した)面白い楽しみな一つの道が開けるかもしれない、そう思って一層力が入るようになった頃、裕(内科医)から先生の病状を聞かされた。先生は末期的肝臓癌に冒されもはや延命が期待できないという。失望した。それから二年間、先生は気丈に絵を描き続けられたが、或る日忽然と息を引き取られた(先生のアトリエには日展委嘱作品が画架に未完のまま残されていた)。僕は47歳になっていた。僕が垣間見た画家(えかき)人生的夢は泡沫(うたかた)のように潰えたかと思えた。しかし半年後、僕は、山中さんと加地さん(共に一水会会友)に誘われて石川県一水会の春の安曇野写生旅行に参加して風景画の大家=奥田憲三先生に出会い私淑する機会を得ることになる。僕に夢を与えそしてその夢を潰えさせた八野田博先生――その死が、僕に奥田憲三先生との運命的出会いの舞台を用意してくれた。奥田憲三先生――この方こそグレイ(=補色理論)の大家的画家だった。人の巡り合わせは不思議なもの。

2009年7月23日木曜日

裕(=双子の弟)発見!

7月19日(日)七尾市港祭りの日。午前中土砂降りに突風。それが午後になると雨が上がった。夕方が近づくと晴れ間もちらほら。僕はいつもの通り日曜午後6時からのTV漫画「ちびまる子」を見た。それから散歩に出ることに。市街中央の川渕通りに来ると市民総踊りの最中。「メディカルサロンななお・七尾市医師会」の提灯が躍るのを見て裕達(三林内科胃腸科医院御一同)が踊っているのを期待しデジカメを構えた。
居た居たf(^_^;)。これが噂の双子の弟・裕君!(母の言う”ユッちゃん”)

美知子さん(裕の奥さん)
これが噂の恵子ちゃん(裕の長女)。

看護婦さん、職員さん。


裕のところのスタッフは開業以来17年間就職したが最後誰一人と辞めない。増えるばかり(今では当初の倍増)。裕の人柄が推測できるでしょう。
更に散歩を続けていたら花火が上がった。

歩き疲れたので矢田新町“ケ・セラ”で一服。
西田酒店ソムリエ”マダム櫻子”推賞のワインを飲んで帰ってきて、寝た。好い散歩だった!(^^)!

2009年7月22日水曜日

幸せの青い鳥

能登島・曲(まがり)の喫茶店《海とオルゴール》のママがひと頃《幸せの青い鳥》と呼んで夢中で追っかけて撮りまくっていた鳥がいた。
その鳥の名はイソヒヨドリと判明。全国の海岸の岩場に棲むそう。

但し青味を帯びてるのは雄で、雌は地味。この鳥、一般には馴染みがないのでは。

野草、野鳥に無知過ぎた。


還暦を過ぎた今になってつくづく思う――これまで野草、野鳥について無知過ぎた。デジカメを向けパソコンに収録してさて名前を付けようとすると殆ど知らない。無知でも人生に支障がなかったんだから今更どうよという考え方もあろう。何せ名前を人に尋ね歩いても99%期待できないことは実証済みだから無知であってもどうということもないことは確か。しかしやっぱり癪に障る。知りたい。事物の名前を知ってすっきり納得して死にたい。
幸い現代はWeb検索で知ることが出来る。最近はこうして野草、野鳥の名前を検索して溜飲を下げている。
夏から秋にかけて写生旅行に出た夕暮時、喬木の上に群がって実に喧しく騒ぎ立てている小型の鳥がいる。ギャー・ギィ・キャァと騒々しい。寝床の取り合いをしているらしい。ひとしきり大騒動をして闇が迫る頃にはシーンとして寝静まる。嘴と脚が黄色い、灰黒色の貧相な形の鳥。

調べてみたら名前はムクドリだった。「ムクドリ」という言葉は知っていたがハハーンこれがムクドリかと実体と初めて結び付いた。嬉しい、人生がちょっぴり耕されて豊かになったような気がする。この鳥の群れる習性は半端じゃなくて、群れるとなったら空が暗くなるほどらしい。

鶯色ってどんな色?

梅雨の合間、鷹合川の土手を歩くと裏山で盛んに鶯が鳴く。縄張りを主張しているらしい。ところで鶯の実物を見た人はそんなに多くないだろう。声はすれども姿は見えずというのは鶯のことかも。鶯は警戒心が強く藪に潜んで滅多に姿を現さない。昆虫を食べる肉食系。
鶯と云えば花札の「梅に鶯」の図柄を想起する。花札の鶯は普通綺麗な黄緑色。春の和菓子の「鶯餅」も能登では綺麗な黄緑色の黄粉(きなこ)を塗してある。どうやら鶯色としてはメジロ(目白、花の蜜を吸う草食系)の黄緑色が連想されているようだ。
しかしジャンジャジャ~ン♪ 鶯の実物は意外に地味なヤツ。

因みに色に関するJIS規格にウグイス(鶯)色というのがあって、それも結構地味です。本物の鶯の背羽の色を採用したそう。黄緑色に茶色を混ぜたような変な色。Web検索して実見して見るべしf(^_^;)。

【七重ちゃんのメールから】
‥‥ウグイス、鳴き声を聞いていると、面白いですよ。正調ホーホケキョと鳴くの、案外少ない気がするのですが、鎌倉のウグイス、みんな下手糞。私の知る限り、一番上手だったのは、(七尾市の)松百の療養所へ登る坂で聞いたホーホケキョです。お上手お上手もう一回、と言ったら、歌ってくれた。鎌倉でホー、ケキョと歌ってるのがいたので、「下手糞」と野次ったら、ぴたっと止めて、可笑しかった。野生の動物は、こっちの思っている以上に人間のこと分かってる感じがします。

2009年7月21日火曜日

森田正剛弁護士が死んでしまった


森田正剛さんとは昭和50年に共に司法試験に合格し2年間の司法修習生活も一緒に過ごした。僕より丁度10歳年上だった。不思議と気が合って弁護士になってからも肝胆相照らした。森田さんは僕のことを「好漢」と呼んだが、こんな言葉遣いが好きな人だった。彼は弁護士として実に有能だった。コンピュータ付きブルドーザーの様に法律実務を精力的にこなした。昭和53年に金沢市で法律事務所を開業し十数年間の奮闘努力で森田正剛法律事務所は金沢でトップクラスの法律事務所に発展した。彼の実務能力と馬力と根性からすれば金沢弁護士会で抜きん出るのは時間の問題と見えた。森田さんは弁護士会務にも骨身を惜しまず精を出した。その活動活躍は超人的で、誰の目にも過労と映った。悲劇は森田さんが60歳の年(平成8年)に起きた。彼は金沢弁護士会の(筆頭)副会長として多忙を極めていたがその日、日弁連の業務対策委員として東京に出張し会議の最中に倒れた。脳卒中だった。一命は取り留めたが以後森田さんは植物状態で生きることになった。以来12年間、森田さんは妻子に見守られて自宅で生きた。今日、告別式の最後に森田さんの死顔に接する機会を得た。12年振りに再会したその顔に12年間分の老いが刻まれているのを見て驚く自分が意外だったが、僕が感銘を受けたのはその顔の綺麗さと穏和さだった。この12年間、森田正剛さんが家族に愛され大事にされてきたことをその死顔は物語っていた。
僕は思う――森田正剛さんの死は(公務に奮闘中の)《戦死》だ。弁護士森田正剛殿に敬礼ッF(`´)。
森田正剛さん、僕はあなたと20年間兄弟の様に誼を交わすことが出来たことを有難く思っています。あなたのことは生涯忘れません。
   Tuesday, July 21, 2009                   三林 隆

この写真、森田さんが東京で会議中に倒れる二年前に金沢で撮影された。検察修習時の指導教官・浅野義正検事(右から三人目。当時富山地検次席検事として赴任)を囲んだ懇親会で。左から三人目(小太り)が森田さん。

2009年7月19日日曜日

「彩の会」でモデルを描いた!(^^)!


このモデルさん、最高(↑油彩画)。至宝と云うべし。実は「彩の会」会員f(^_^;)。前回既に自ら志願して着物姿でモデルを務めたんだが(↓パステル画)、

モデルの期間が済んで静物の週に入っても描く側の席に坐らず当然の如くモデル席に坐っていた。居心地が好いらしい。僕が半ば冗談で「またやるぅ」と訊いたら頷いたので有無を言わさずまたモデルにした。本人がすっかりやる気で「家にチェロがありますけどぉ」と言い出したのでテーマは《チェロを弾く女性像》に決まった。やっと絵の報告が出来ることになった。それも毎週、完成まで(*^^)v

悲しみの感情こそが芸術家を衝き動かす

人を動かすのは感情。理性・意識と称するものは後からついて来る。喜びや怒りは爆発的に祭(まつり)的に発散できる。怨み嫉みは陰湿だが立場が逆転し憐れむことが出来れば霧消する。悲しみは別格の感情。悲しみは衝撃性が強く脳裏に深く刻み込まれて人を衝き動かす。悲しみの感情の克服は芸術的昇華の方法の外にはない。

釈迦は居城の「四門」から「出遊」して四苦をわずらう人を見て悲しみその衝撃に衝き動かされて出家した。

ピカソが生涯手離さずアトリエで身近に置いた一枚の絵がある。14歳のときに描いた《裸足の少女》。普通の画集には収録されていない。この絵のコピーを見たとき僕はピカソの心の奥が垣間見えた気がした。少年ピカソは「裸足の少女」に人が生きることの悲しみを見たのだ。そして悲しみの感情に衝き動かされて《裸足の少女》を描いた。ピカソは大人になり悲しみこそが人を人たらしめる感情でありそれが芸術を生み出す淵源であることを確信した。

悲しみの衝撃は僕の人生をも支配した。双子に生まれた宿命だった。このことは後日整理してから必ず書く。書かねば僕の画家人生が始まらず従って終わらない。

2009年7月16日木曜日

補色理論 について。

《ゴッホ書簡全集》(全6巻、みすず書房)を読むとゴッホが補色理論に如何に強い関心を持っていたか、補色について如何に深く探究を進めていたかが分る。印象派の登場と、光・色の自然科学的研究の進展とは期を一にしている。ゴッホのキャンバスはパリから南仏アルルに転地した途端一気に明るく多彩になるが、しかし彼のパレットには5、6種程度の絵具しか捻り出されていなかった。それだけであの多彩な画面を創り出した。それは正に補色理論の成果。ゴッホが南仏で使っていた絵具の種類と分量はほぼ正確に推測できる。彼はパリの弟テオに対して仕入れて送って欲しい絵具の種類と分量を克明に指示した手紙を送り続けたが、その手紙がほぼ全部弟テオ(ゴッホ自殺後あとを追うように死亡)の未亡人ヨハンナの手で奇跡的に保存されていたから。ゴッホが使用した絵具の種類は驚くほど少ない。少ない絵具の種類であの多彩な絵を描いた。それは彼が研究した補色理論の賜物。またゴッホが弟テオに送ってくれるように依頼したホワイトの分量の多さにも驚かされる。ゴッホの画面の明るさはホワイトの大量使用にある。さて補色とは何か――中学校の美術教室に張ってあった《12 or 24 色相環》の図を思い浮かべればよい。色相環の対面(といめん)関係にある二色が互いに補色。色相環図には12又は24の色しか表示されていないが(だから補色関係は6組又は12組しか表示されてないが)、大自然の中では色相は無限にあるから補色関係も無限にある。補色理論は机上の理論ではない。僕は補色関係を強烈に体験したことがある。氷見市街に丁字路があり、僕は車でその交差点に向けて正面突き当りに一商店の大きな看板を見つめながら進行していた。看板は赤。不図目を瞑ったら眼の中に青緑の看板がくっきりと浮かんだ。青緑が余りに鮮明に浮かんだので驚いた。補色理論が実証された瞬間だった。以来補色に注意して自然を観察するようになったが、見えてくることっ!日陰には日向の補色が潜んでいる。影の部分にこそ目で味わうに足る色味がありその千変する微妙に儚い美しさといったらない。自然界に原色は存在せず在るのは色味の着いたグレイの諧調だが、グレイの諧調は無限種類の補色の微妙な混合で作られている。陽として赤が見えているとき、実は陰として補色の青緑も見えている。だから陽の赤が突如消失すると陰の青緑が浮かび上がる。陽の赤を感ずる視細胞が活性化するとき、実は陰の青緑を感ずる視細胞も活性化している。一般的にある色味を感じたときは、その色味をグレイ化して色味を消し去る補色も感じている。陰の補色を感じられてこそある陽の色味の何たるかを味わえる。ここで思い至るのはヒトの脳は「対(つい)」概念を好むということ。明暗、陰陽、有無、生滅、虚実、濃淡、前後、左右、上下、縦横、高低、本末、大小、軽重、広狭、遠近、動静、緩急、遅速、昇降、強弱、硬軟、清濁、表裏、終始、賢愚、美醜、苦楽、貧富……∞。明は暗を解してこその明、暗が分らねば明も分らない。左は右を解してこその左、右を解さねば左も分らない。貴賎という厄介な対概念すらある。こういう歴史性のある対概念の扱いは浅慮を排して注意深くなさねばならないが、僕の言いたいのはヒトの脳は物事を「対(つい)」にして扱うことを好む性質があるということ。多分「対」が成立して初めて物事が分ったと合点する。中途半端は分ったとは言わない。視覚の世界からいきなり言葉の世界に跳んでどうする。しかし言葉を生み出す大元(感覚)に立ち至れば通じていよう。話は更に飛躍するが、分子生物学の次元ではヒトの構成単位である細胞は細胞膜を隔てて細胞質と外界の交通がONかOFFかで生きている。二者択一・二律背反の世界。ONはOFFがあってこそのON、OFFはONがあってこそのOFF。OFFがなければONはなく、ONがなければOFFはない。この対(つい)の機能が失われれば(中途半端化しても)細胞は死ぬ。それはヒトの死に繋がる。ヒトとは極論すれば細胞が組織化され、組織化された細胞の活動が同期同調化されたものであり、個々の細胞の生命現象は細胞膜を隔てた外界と細胞質との交通がONかOFFかに懸かっている。ゴッホの後半生における補色理論の研究は命懸けの事業たり得た。尤も後半生といってもゴッホの人生はたった37年間、そのうち画家を志したのが27歳からで、補色理論に基づき絵を描いたのは最後の南仏時代の2~3年間に過ぎない。この2~3年間猛烈なペースで絵を描いた。

2009年7月8日水曜日

脳科学者・茂木健一郎のクオリティ(質感)探究の旅は必ずや挫折する。

トレンディ脳科学者・茂木健一郎はクオリティ(質感)知覚のメカニズムを解明することをライフワークにすると宣言している(尤も最近余り言わないようだが)。彼がクオリティ(質感)知覚を不思議に思うのは至極尤もで、僕も実に不思議に思う。しかし彼のクオリティ(質感)知覚の研究の旅は初っ端から道を間違えている。彼の旅は今もって一歩の前進もあるまい。彼は、視覚刺激によって喚起された網膜の反応が視神経回路を電気的にまた化学的に伝達された末に大脳で如何にしてクオリティ(質感)を形成するのかを問題とする。これではデカルト以来の物心二元論の現代版でしかない。西洋流科学論を身に付けた人は大概この物心二元論の陥穽に陥る、そして陥穽に嵌っていることに無自覚。茂木健一郎ほどの研究者でもやっぱりこの陥穽に嵌っている。物心二元論からは現代においては最早成果が期待し難い。ひと頃僕は養老孟司の唯脳論に心酔していた。しかし近頃この論も物心二元論の陥穽に嵌っていると思うようになった。そもそもクオリティ(質感)は大脳で初めて発生するのではない。クオリティ(質感)は大自然が元来具備している性質。その大自然具有のクオリティ(質感)を知覚するのは眼(視覚)。眼はこれまで一般だったようにカメラと同様の構造機能を有するものと理解されてはならない。眼の網膜は脳そのもの(脳の一部)であってカメラフィルムの如きものではない。大脳の解剖図の描き方が大体において間違っている。大脳が眼や耳、鼻、舌そして身体中に張り巡らされた諸々の神経と切り離されて描かれることが根本的な間違い。これでは大脳は孤立孤独孤高の存在の様に見える。しかし大脳は本来眼、耳、鼻、舌、皮膚等を駆使し、足で移動し手で触り頭を回転させて積極能動的に生活生態環境を知覚するもの。大脳解剖図は脳の一部をなす諸々の全神経と共に描かれなければ大脳本来の構造機能の理解に支障を来す。大脳は決して受動的な存在ではない。探索探究的な隅に置けない存在なのだ。

2009年7月2日木曜日

宿命ということはあるか? ある、と僕は思っている。

僕は双子で生まれた。稀有な生まれと思っている。

僕は先に生まれたのに「兄」とされている。母の話では、臍の緒は一つだったから一卵性双生児だそう。片割れの「弟」は成人してから二卵性じゃないかと疑問を差し挟むようになった。僕は産んでくれた母の説を信じている(尤も臍の緒が一つなら一卵性と断定できるのか、そこははっきりしない)。双子は生まれ落ちる前から特殊な世界に生きている。母の狭い子宮内で押しあい圧(へ)し合い蹴り合って折り合いをつけながら他者の存在を触覚的に感じている。生まれ落ちてからも傍で片割れの泣声を聞き匂いを嗅ぎ触って体温質感ボリュウムを感じて母以外の他者の存在を早くに身近に感じている。目が開くと母を見、そしてずっと触覚的に感じてきた他者を光の中に見る。母の胎内の触覚的世界から共にあった他者、それは何モノなのか――双子は生まれ落ちる前から普通の生まれでは与えられない命題に既に当面して生まれ出るという宿命を負っている。
僕が自分を双子という稀有な生まれであると意識したのは、僕達を見る他人の目の中に奇異なモノを見る時の独特の色を見出した時が初めて。「双子ッ」と差別感情を露わにした言葉を投げつけられた時が宿命と自覚した始まり。
生まれ出る時に既に負っていた宿命が双子のその後の人生に如何に測り知れぬ支配力を及ぼすものであるかについて、普通の生まれの者は知る術がない。その普通測り知れぬところを、自分の人生(来し方)を素材にしてそれを《現象学》的に研究してみようというのが、僕のブログを書くもう一つの趣旨。人とは何モノなのか、人は何モノたり得るのか――それを、双子という宿命を負って生まれた立場を奇貨として双子であればこそ持てる観点手法(双子にしか持てない観点手法)で探究してみる、これぞ僕の――双子として生を享けた僕の宿命的課題だと何時の頃からか自覚した。その時期は――絵を本格的に描くようになった頃とほぼ一致する。

2009年7月1日水曜日

隆くんの耳の老化がソシュールの言語理論の正しさを立証した。

還暦を経過したら目も耳も悪くなった。言いたくないけど(言われる前に言うけど)老化現象(老衰)(-_-;)。特に耳の老化が甚だしい。法廷で尋問していて相手の言葉が聞き取れないんだから始末が悪い。弁護士稼業から足を洗おうと考えるのも致(いた)仕方ないでしょう。何が聞き取り難いのか――そのことを法廷で黙考してみることがある。結論は――尋問相手の音声・音韻の微妙な《差異》が聞き取れなくなった(音声音韻が混濁して《差異》として感じられない)。《差異》の分別がつかないと《言葉》が浮かばない、何を言ってるのか意味が分らない。意味と言葉は《差異》の只中に、意味と言葉の全体系(言語体系)との関係の中に生ずる。こんなことを悟るなんて僕もいっぱしのソシュール言語理論学者みたいでしょう。老衰もなかなかのもんかもf(^^ゞ