2016年6月20日月曜日

〇6/4(土)大阪府枚方市「交野(かたの)天神社」 重文本殿・重文末社本殿と継体天皇樟葉宮跡伝承地を探訪

〇高槻城から吹田市「交野天神社」に来た。到着するのに難儀した。森が深い

 ↓左折したところ

 ↓拝殿
 ↓「交野天神社 桓武天皇は、延暦6(787)年、長岡京の南郊の地を選び、郊祀壇(こうしだん)を設けて、父光仁天皇を天神として祀りました。これは、中國の皇帝が毎年冬至に、都の南に天壇を設けて、天帝を祀る例にならったもので、当社の起源はこの郊祀壇にあるといわれます。交野天神社本殿は‥鎌倉時代の1238年、室町時代の1401年に修理されました。‥末社八幡神社本殿は、造営年代は天神社と同じですが、‥‥ともに国の重要文化財に指定されています。」
 ↓左・重文天神社本殿、右・重文末社八幡神社本殿
 ↓八幡神社本殿

 ↓天神社本殿
 ↓末社八幡神社本殿
 ↓左・末社八幡神社本殿、右・天神社本殿
 ↓天神社本殿
 ↓右折すると「樟葉宮旧蹟」に至る
 ↓「継体天皇樟葉宮跡伝承地 武烈天皇の死後、大連大伴金村らによって越前三国から迎えられた男大迹(おおど)王は、507年樟葉で即位したとされます。このとき王の知己であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が密使として活躍しており、即位には、北河内を本拠地とする馬飼部の大きな貢献があったと考えられます。継体天皇は、5年後に山背国筒城(やましろのくにつつき)(京田辺市付近)、12年後に弟国(おとくに・乙訓)(長岡京市付近)に移りましたが、大和国に入ったのは20年後のことです。以上は「日本書紀」によりますが、「古事記」は、樟葉宮以降については何も記していません。樟葉宮跡と伝えられるのは、枚方市指定文化財となっている貴船神社のある小丘のあたりです。‥」
↓貴船神社のある小丘
↓「此の附近継体天皇樟葉宮地」
↓樟葉宮跡伝承地に建つ貴船神社


↓「史跡・継体天皇樟葉宮跡伝承地」


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