2018年4月15日日曜日

〇4-14(土)長浜市「小谷城」と「横山城」の間を走り回り、織田徳川・浅井朝倉両勢の姉川合戦の現地踏査

織田と浅井の鍔迫り合いで果たした「横山城」の役割は大きい。姉川の戦いは、横山城の支配権が浅井から織田に移った契機だった。横山城の覇権が織田の手中に帰したことによって、小谷城滅亡の命運が決まった。織田に帰した横山城は、小谷城の喉元に突きつけられた匕首だった。戦国時代の帰趨を左右したこの横山城が何処に所在したのか、それが何度湖東・湖北を訪れてもはっきりしなかった。ボクの地理歴史好きのプライドを傷つけ続ける課題だった。今日こそその決着をつけるべく現地に臨んだ。予めネットで情報を集めたうえで。小谷城の登山口にある資料館に詰めて居たボランティアガイドのおじさんの指導教示を得られたのは課題解決の保証を与えてくれたも同然だった。
今日の午後に探訪した箇所を次に列挙。
①「虎御前山(とらごぜんやま)」登山口←信長の小谷城攻略戦の最前線本陣となった。その山裾は、小谷山の麓から100mと離れていない。信長は傍若無人の軍略を採った。
②小谷城の「番所」まで、ハリアーで林道を駆け上った。山上から、教示を受けたばかりの臥龍山(8kmに亘って龍が寝そべった様に山稜が続く。その山稜に当時点々と砦が配置されていた、それが横山城)を望見した。教示の通りに山稜には点々と鉄塔が立ち並んでいて、臥龍山に間違いないと思われた。眼下に、姉川の合戦前日まで・浅井朝倉勢が布陣していたという「大依山」もそれらしく展開していた。信長が合戦前日まで本陣を置いたという「龍ヶ鼻」がいかにもそれと分る姿で確認できた(臥龍山の北端、龍の鼻先)。
③姉川に架かる旧「野村橋」(崩落の危険があるので車両通行禁止)の北側橋詰の「元亀元年両軍陣没者慰霊石碑」に到達。北国脇街道は古くはここを通っていたから、確かにこの辺りが激突地だろう(街道がなければ大軍を移動できない)。ここから「龍ヶ鼻」は目と鼻の先(数百m)。
④開戦時、信長が本陣を移していたという「陣杭(じんご)の柳」という地点を探訪。小高い龍ヶ鼻から下りて距離にして数百mの平地に在る。
⑤「龍ヶ鼻」に到達。「茶臼山古墳群」があり、信長は古墳の高みも利用した。
⑥浅井の重臣「遠藤直経(なおつね)」が信長の本陣に切り込もうとしてあと一~二百mの地点まで接近して討死にしたその地点に到達。小さな「遠藤直経の墓」がある。今も人々により供養されている。
⑦徳川家康が本陣を置いた「勝山」を探訪。遠望するとこんもりと盛り上がった森となって見えたので見当がついた。「陣杭の柳」から数百m。
〇以上から推察すると、戦場は限定的でその規模は大きくない。姉川の合戦に大会戦を重ね合せてみるのには無理があろう。
⑧横山城・臥龍山稜の反対側に「観音寺」があるのを思い出したので行って見た。もう夕暮れが迫っていた。石田佐吉少年(後の三成)が狩の途中の秀吉に三杯の茶を献じた話の舞台となった寺。重文総門前に「横山城ハイキングコース登り口」の標識があり、登り道もある。
姉川の線から以南の支配権を織田勢に奪われて、横山城は浅井から織田の手に帰した。信長は横山城の守備を秀吉に任せた。秀吉は小谷城攻略戦でも先陣を切り大活躍し、長浜20万石の戦国大名にのし上がる。

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