2018年5月31日木曜日

〇5-25(金)秋山郷・見玉公園「中津川の断崖絶景」

〇秋山郷の入口の見玉地区に中津川の断崖絶景」が見れる公園がある。
↓断崖が見えるヴューポイント入口
 落日がまともに目に入って完全な逆光
 ↓津南町方面が開けて見える。ここは中津川渓谷の入口
 ↓パンフ「雪ぐらし」に載っていた断崖の絶景(秋)
 ↓公園駐車場の無人小屋のガラス戸内側に貼ってあったポスター。「前倉のトド」から見た「苗場山」と「小赤沢」集落
 ↓「円池」と「鳥甲山」
〇翌日再挑戦

 「柱状節理」がしっかり見える。苗場山の大噴火で流れ出したマグマがここまで来て地を覆い急速に冷えて柱状節理ができた。秋山郷ではこの柱状節理断崖が到る所で見られる。



2018年5月30日水曜日

〇5-25(金) 秋山郷の入口「見玉(みだま)不動尊」

「見玉」という集落に在る。ここが秋山郷の入口。未だ秘境という感じはしない。
↓壇ノ浦の合戦後、平清盛の家臣・平氏宮本清左衛門が守り本尊の不動明王像を奉持してお告げによりこの地に開山した。
↓左端・天台州正寶院。中央奥に鳥居
 仁王門


  石段を昇ると不動堂
 石段の横に七段の滝がある


 不動堂。不動明王像は秘仏

 正寶院・天台宗


2018年5月27日日曜日

〇5-26(土) 晴。「秋山郷」と「山古志村」探訪

〇午前9時半妙高高原を出発、野尻湖・信濃町を経て信濃川に出て、川沿いに国道117号線を飯山・野沢温泉と辿り津南町に着く。ここで中津川渓谷の秋山郷に入る。入ってみると途中から山道が一車線道路になる。片側が崖でかなり怖い。越後側の最南端の集落「大赤沢」で昼下がりとなったし精神的疲れも溜まったので秋山郷の深入りはここで終止符を打つことにした。信濃(栄村)側の集落は生涯訪れることはないだろう。ここで打ち切ったのには理由がある。大赤沢に「山源」という名木彫刻の店がある。そこに「ご自由にお持ち帰り下さい」コーナーがあり数種類の秋山郷の景勝名所の案内資料が置いてあった。それを入手したらこの先を探訪する必要がなくなった気がしたのだ。実際初めての探訪で気苦労を重ねた末に景勝名所に回り逢えるかというとあんまり期待できない。それよりもヴェテラン・通・プロの人の写真成果に頼る方がはるかに優れた効率的な取材方法だ。今の時代、それらの成果をスキャン・デジカメでパソコンデータに取り込むのは容易。大赤沢で探訪を打ち切ってもそれで目的は(多分)十分達している。今回の探訪で自ら得た成果。「見玉(みだま)不動尊」「中津川の断崖絶壁に露出した苗場山噴火の痕跡(柱状節理)」「猿飛橋」「前倉橋」「苗場山全容」「鳥甲山」(この二つの山に囲まれた谷間に秋山郷は開かれた)「山源の名巨木」「蛇淵(へびふち)の滝」そして何よりも「山源で入した貴重な写真資料」(断崖絶壁公園の駐車場の小屋のガラス戸に貼り出されていた景勝ポスター2枚も掘出し物)。
〇この後、十日町・小千谷・川口を経て「山古志村」に入った頃は午後も深かった。山古志村(今は長岡市)で探訪した主なものは三つ。一つ目は「錦鯉」の養殖。養殖業者の一軒を覗いて見た。特筆すべきは錦鯉の名品が長岡市山古志支所の玄関横の生簀で飼われていること。観光バスがわざわざ山古志支所に乗りつけて乗客に生簀を覗き込ませていた。二つ目は「闘牛場」。ボクの探訪したのは「山古志闘牛場」だが、驚いたことに山古志村には全部で五つも闘牛場があるのだ。これでは初夏から秋までのシーズン中は毎週どこかで闘牛が開催されていることになる。凄い情熱だ。山古志闘牛場は小振りの本格的なスタジアムとなっている。ここから見えた越後三山(左から越後駒ヶ岳・中岳・八海山)も目に焼き付いてる。三つ目は中越地震で水没した木籠集落。地震で大崩落した土砂に谷川が堰き止められてダム化して谷底の集落が水没したらしいが、今はその面影がない。高台に建っている新住宅が復興住宅らしいが数が少ない。村を去った人達も多そう。
〇帰りは柏崎に出、北陸自動車道に乗って戻った。帰着、7時半。明日日曜日は休養と資料整理。

2018年5月25日金曜日

〇5-25(金) 天気が好いので週末旅行に出た。「秋山郷」を目指したが‥‥

上越から山を越えて津南町に入ったら、秋山郷への入口が分らなくなった。記憶では入口の標識があったはずなのに標識が見当たらず右往左往する破目に。十日町によっぽど近づいてから幾らなんでもこっちは違うと結論を出して反対側の飯山方面に向かった。そして漸く秋山郷入口の標識に回り逢った。その時はもう夕方に近かった。それで秋山郷に本格的に入らず終いで戻って来た。というのも妙高高原池の平のペンション・シェーネに宿泊予約をし到着時刻を6~7時と連絡しておいたので、津南町から妙高高原までの所要時間を考えたらとても深入りしている余裕はなかった。以前秋山郷入口の標識を見たのは、飯山・野沢温泉経由で信濃川沿いに津南町に来たときのことだった。
秋山郷とは地名ではない。秋山と言う集落・地名はない。秋山郷は、新潟県側10村(今津南町)、長野県側6村(今栄村)で構成される秘境のこと。源頼朝軍に敗れた平家の落人の郷だという。冬雪に閉ざされると外部との連絡が断たれてしまう秘境で、冬場に飢餓のため餓死者が出ることもあったそう。酷い時は一村が全滅したこともあるそう。秘境振りを物語るエピソードがある。近代になり学術調査隊が秋山郷に入った時、村民が問うたという、「源氏はまだ栄えているのか」と。苗場山の西麓に位置する。信濃川の支流・中津川の峡谷にある。新潟県側の南端の村は大赤沢、長野県側の南端は切明。明日もう一度秋山郷に挑戦してみようかなと思っている。それから今は長岡市に所属する「山古志村」にも行ってみようと思う。絵になる景色があるかないか、ボクの関心はそこ。
ペンション・シェーネにて。

2018年5月24日木曜日

〇《イザベラバード紀行(18)》5-2(水) 日光金谷ホテル

↓神橋方面から見える日光金谷ホテル旧館

 ↓新館正面



 新館・奥

   ↓旧館。天皇・皇后両陛下が御宿泊された。イザベラバードをもてなした金谷善一郎が始めたホテルはこの旧館だったろう。
旧館側面
 お地蔵の背後は旧館

〇《イザベラバード紀行(17)》5-2(水)日光「神橋」

「金谷邸跡」から「日光金谷ホテル」に向かう途次、神橋を見る。木立の背後に岡があり、その上にホテルがある。
 川は大谷川(だいやがわ)。華厳の滝から流れてくる。
  神橋は有料で開放されていた。尤も橋の向こう側には出れない、ということで人はやっぱり渡れないという理屈は維持されているということか。

2018年5月23日水曜日

〇《イザベラバード紀行(16)》5-2(水)日光「金谷邸跡」

〇イザベラバードの肖像
彼女は明治11年に来日し、日光から会津・新潟・米沢・山形・大曲・秋田・大舘・黒石(弘前)・青森を経て函館に渡り蝦夷地を探訪した。その折日光の金谷邸に10日間滞在した。亭主金谷善一郎とその姉(イザベラは勘違いして妹と記している)の上品さと誠実なもてなしに感服している。金谷善一郎は、外国人相手のホテルを経営する夢を語っており、イザベラはそれを奨励した。今、神橋の傍の岡の上に建つ金谷ホテルは善一郎の夢の結晶であり、子孫がそれを維持している。イザベラが奥日光の湯元温泉に出かけたのも、ここ金谷邸からだった。
 ↓「日本奥地紀行」の表紙。「上山(うえのやま)の美女」(上山は山形市の南にある温泉地)のスケッチ絵が使われている。イザベラ自身のスケッチらしい。彼女は絵が大変うまい。
↓中央に「金谷カテッジイン」と記してあるのが、明治時代の金谷邸

〇金谷邸跡はなかなか発見できなかったが、店に入っては聞き聞き訪ねて行った。遂に門前に到達。

 〇イザベラが金谷邸をスケッチした絵が残されているが、この写真とそっくり。

館内撮影禁止
↓玄関から入口の門を見る





建物の裏側




〇金谷邸跡に行き着くことが、今回の旅行の目的の半分だった。