2020年1月30日木曜日

★奥の細道紀行 第242章 滑川市「芭蕉一宿の宿・川瀬屋」

奥の細道》 《くろべ四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云う浦に出ず》
越中国の道中の記述も、芭蕉は筆を惜しんでいる。
那古の浦は今の新湊市あたりの海岸線と思われる。
曾良随行日記』 『13日、市振立つ。‥(越)中・(越)後の堺、川有り。渡りて越中の方に越す。堺村と云う。‥‥
泊ニ到テ越中ノ名所少々覚者有。入善(にゅうぜん)ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黒部川ヲ越。(情報によると)雨ツヾク時ハ山ノ方へ廻ベシ。(山の方に)橋有。(橋まで)壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴(雨となり降りて晴れる)。申ノ下尅(さるのげこく。夏だから午後5時過ぎだろう)、滑 河(なめりかわ)ニ着。暑気甚シ。』 
〇越中国では滑川と高岡に泊まったことが曾良随行日記に記されている。
〇滑川にはほとんど情報を持たずに入り込んだので期待していなかったのだが、道の駅で案内嬢(細身のおばさん)に芭蕉句碑の存在の有無を尋ねたらパンフレットを片手に見事な観光案内をしてくれた。パンフレットには何と芭蕉が宿泊したという説がある「川瀬屋跡」まで記してあった。喜び勇んで滑川の旧市街を訪ねて句碑のある箇所と川瀬屋跡それにJR滑川駅前の「旧北国街道道しるべ」を全て探訪した。暑気が甚だしい日で熱中症になった。
↓県道1号線。これぞ旧北国街道だろう。
 ↓海岸線近くをそれに平行に走る県道1号線
 ↓防波堤・日本海を背に「川瀬屋跡」がある。小公園になっている。


 ↓右側の団子石「芭蕉翁・おくのほそ道宿泊のまち」
 ↓「芭蕉「奥の細道」と川瀬屋 
 元禄2年(1689)、松尾芭蕉と同行の曾良は、奥の細道の旅の途中、7月13日(新暦では8月27日)の夕方滑川に着き宿った。旅籠の川瀬屋という説が有力でこの辺りにあった。川瀬屋の主人は門人でもあった。宝暦13年(1763)に「俳諧早稲の道」を著した川瀬知十(ちじゅう)は翁の宿泊を祈念して自家の檀那寺である徳城寺の境内に「早稲の香や分け入る右は有磯海」の吟詠を刻んだ句碑を建立した。徳城寺は、この頃はまだ新(荒)町の海辺にあったが、明治13年(1880)に、句碑とも現在地に移転した。
【荒町の成立】 新町は、大町、瀬羽町に次いで、慶長年間に新しくできた町であったと伝えられる。海岸線に平行して東西に北国(北陸)街道が走り、その両側に家並みが連なり、浜に抜ける小路が発達した。」


 ↓川瀬屋跡の筋向いにある「荒町(新町)公民館」
〇以下、いずれも道の駅「ウェーブパークなめりかわ」で見つけた写真。
↓海岸中央に凹んでいる箇所が滑川漁港。その右側の街並が滑川市街地。背景の山は立山連峰。連峰中央の尖っているのが剣岳、その左が毛勝三山、右が立山。芭蕉と曾良が渡河した黒部48箇瀬は写っていない(ずっと左側)。剣岳を水源とする川は常願寺川(写真の右側外れに河口が開ける)。この海岸線を芭蕉と曾良が暑気と闘いながらとぼとぼと滑川の宿に辿り着いたかと思うと感慨ひとしお。
 ↓JR滑川駅南側出口から見える晩秋の風景だそう。山は剣岳。絵になっている。死ぬまでに必ず訪れて描こう。

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