2020年1月7日火曜日

★奥の細道紀行 第223章 上越市直江津「聴信寺」

曾良随行日記』 『〇六日 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ浜ヲ通りテ、今町ヘ渡ス。聴信寺ヘ弥三状届ける。忌中ノ由ニテ強い而(て)不止(とめず)、出ず。石井善次郎聞きテ人ヲ走らス。不ㇾ帰。及再三、折節雨降り出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云い付けル。夜ニ至りテ、各来ル。発句有り
〇七日 雨不ㇾ止(やまざる)故、見合(みあわせ)中に、聴信寺ヘ被ㇾ招。再三辞ス。強いて招クニ及暮。昼、少し之内、雨止む。其の夜、佐藤元仙ヘ招テ俳有りテ、宿。夜中、風雨甚。』
◎「黒井ヨリスグニ浜ヲ通りテ、今町ヘ渡ス」 芭蕉と曾良は鉢崎から黒井に出てそこから直江津へは海辺を船で渡った。当時、直江津は今町と呼ばれた。
◎六日は「古川市左衛門」方に一宿。七日は「佐藤元仙」方に宿泊したように読める。
◎芭蕉が越後路に冷淡になった原因の、その三は上の事件。聴信寺の者は「忌中」を口実に芭蕉を泊めるのに好い顔をしなかった。芭蕉は大いに臍を曲げた。
◎ボクが原因として挙げた三件のうち二件は、美濃国の商人宮部「弥三郎」こと俳人「低耳」の紹介状が絡んでいることにも注意が要る。低耳に信用がなかったことも一因かも。低耳は象潟で芭蕉一行を後から追ってきて、所々を巡るのについてきた。
↓「聴信寺」発見。直江津の街の中。


2 件のコメント:

  1. 芭蕉などの知識、貴殿の生き方にただ感心する愛知県の貧乏警備員です。 私は、東海圏なので、三英傑や芭蕉に引かれ、この地方の歴史的な場所を休日に徘徊しています。この夏明星輪寺に行く途中の鬼坂を息を切らして登ったのが印象に残りました。また、時々ブログを覗かして頂こうと思いました。有難うございます。

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  2. 《奥の細道紀行》を振り返ってみて、今日貴方のコメントを発見しました。有難うございました。明星輪寺は、大垣に着いた芭蕉が訪問したとの説もあり、ボクも行ってみました。セメント工場に周辺の山を削られて孤立している石灰岩の山の上に寺がありましたが、途中の坂は一車線で対向車に出遭ったらお手上げの登り坂でした(あれが鬼坂でしたか)。ゾッとしながら運を天に任せて突っ走った記憶があります。明星輪寺については、境内に芭蕉句碑はありますが、それ以外に資料等で芭蕉が立ち寄ったという証拠が無さそうなのでボクの《奥の細道紀行》には載せませんでした。

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