旅のこれまでの経過にちょっと触れるつもりが大分長くなった。それで「永源寺」の紅葉の記事は別稿で上程することに。
2009年11月26日木曜日
無宿流浪の旅、続行中。えっ、いつの旅のことや?と戸惑われた方は隆君に対する認識が甘いf(^_^;)
2009年11月22日日曜日
11/22(日)午前中、近江の国・余呉湖で絵を描いた。
この三連休、天気が悪いそう。それで僕が家で静かにしていると思いますか?思わない、アッそうf(^^ゞご期待に応えて動いています。尤も昨日・連休初日はさすがに動きが鈍くて(と言うよりも全国的に天気が悪くてどっちに向かえば好いか見当がつかなくて)午後1時出発と出遅れた。一日何もしなかったというのも業腹なので越前・永平寺に寄った。そして南条SAで宿泊した。いつになく寝つきが悪く睡眠が浅かった。四時に一旦起きてメールしてもう一眠りしたら、目が覚めたのが何と9時。こんな時刻になってしまっては行き先が自ずと特定される。最寄りの余呉湖に行って絵をとにかく1枚描き、それから湖東の「金剛輪寺」と「永源寺」の紅葉を愛でて来るしかない。朝寝坊が進路の迷いに決着をつけて呉れた。木ノ本ICで下りて「余呉湖」へ。先ずは写真を撮った。
余呉湖は水鳥が多い。水鳥の天国。
絵の道具を拡げて準備にかかったら11時のチャイムの音が湖面を渡って来た。筆を措いて携帯の時刻を見たら12:37。所要1時間半。ヨ~シッ、これなら湖東の紅葉の名所見学ができる。セレナの中で残飯・正確には残パンを摂って八日市ICを目指した。先ずは「永源寺」。これが紅葉の真っ盛り。「金剛輪寺」、ここも真っ盛り。追々ブログに上程。昨日の「永平寺」も。アッ、絵の上程を忘れるところだった。
2009年11月20日金曜日
11/4に丹後松島で絵を描いていたら出遭った81歳のお爺さんから写真絵葉書が届いた。
11/4(水)丹後松島。一応筆を措いてカメラに収めた絵。
もういい加減に描き飽きた頃に、いつの間にか後ろに立って見ていたお爺さん、「あなた、プロでしょう」「この絵、売れるでしょう」。僕が日曜画家だと言っても信用しない。「現地で描いているのを見て感動したのは初めてや」「あなたの絵は何かが違う」。そして言い出すには、「こんな見る目のある人に、私の写真を見て貰おう」。そして車から写真集を持って来た。「どんどん批判して下さい」「どうですか」「ダメですか」。執念が掴んだシャッターチャンスの数々が収められていた、凄いと思った。老人の顔をまじまじと見ると深い皺が刻み込まれている、凄い御老体。「おいくつですか」と訊くと、「81歳ですがな」。確かに顔は81歳相当。しかし、自分で運転して独りで撮影旅行に出るとホームレス状態になるんだそう。60歳のとき工場を火災で失った、以来写真に道を替えて今日に至るそう。多分写真家として陽の目をみていまい。それでも齢を忘れて全国を跳び回っている、この後も「夕陽の屏風岩を撮りたいので」と言い残して走り去った。ウーム、上には上があるもの←好きさ加減のことを言っている。
11/12名古屋市中川区消印の写真絵葉書が、11/13に届いた。
前略 先日は大山丹後でお世話になりました。あれから無事に11日、名古屋に着きました。又いつかどこかでお逢い出来るのを楽しみに。
では御自愛のほど 敬具
名古屋市中川区○○○ ○○ 修
一旦「大山」と書いて抹消し「丹後」と書き直してあるところを見ると、大山も周って来たらしい。僕と出会ったのが一瞬大山だったと勘違いしたらしい。凄い81歳だ。
それに対する僕の返事。
前略 早速、写真絵葉書を戴いて有り難うございます。
丹後半島での遭遇は愉快でしたね。何の縁もゆかりもない者同士ですが、自然の美しさ・面白さ・機微に魅せられて走り回っている道楽者同士ということはお互い了解できて、それだけで気がおけず話が出来るというのは楽しいものですね。
○○さんは私のことを「あなた、プロでしょう」と言われましたが、私は本当に日曜画家です。63歳、目下未だ弁護士稼業をしています。そのうち廃業して、それこそ○○さんに負けないように全国を走り回るつもりです。その折は、○○さんが永年かけて培われた諸国行脚の経験・知識見識を御教示願いたいと思います。
どうかいつまでも達者で長生きして下さい。
今回の写生旅行で描いた絵をすべて印刷してみました。御笑覧下さい。 草々
平成21年11月13日
三林 隆
○○ 修 様
2009年11月18日水曜日
湖東三山のうち、百済寺
「百済寺」、これを僕は「くだらでら」と読んでいた。寺自身は「ひゃくさいじ」と読ませている。元々は矢張り百済からの渡来人の寺だった。近江の国には渡来系の人達が住んでいたことを思わせる地名が多く残っている。この寺の由緒は古い。聖徳太子の創建にかかると伝えられている。中世には、一山境内を四つの谷に分かち四ッ谷の塔頭300余坊と言われた大寺院だった。それが信長の時代に、信長に抵抗する近江の名門・佐々木氏に味方して信長の逆鱗に触れ、比叡山焼き討ちに伴って焼打ちに遇い一山灰燼に帰した。安土城築城のみぎりには百済寺の石段・石垣が取り崩され運び去られた。こうして国宝級の建造物・仏像等は残らなかったが、境内は往時を物語って広大であり、また古刹の面影を今も宿している。
赤門。
赤門からの参道。
本坊へ。
本坊の門。
本坊。
回遊式庭園。
仁王門に至る石段。
仁王門。
本堂。
千年菩提樹。信長の焼討に遇い幹まで焼損したが、熱が根にまで及ばなかったために幹の周囲から再び蘇った。中央の空洞部(直径約80cm)が、焼討当時の幹の直径に相当するそう。
本堂と菩提樹。
本堂と石垣。
百済寺を出発した時はもうすっかり暗くなっていた。一路帰途に就いた。
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