徳島県発行のリーフレットには次のように記されているそう。本県におきましては、‥‥皇 紀二千六百年の記念事業として、全県民の浄財と勤労奉仕約七 万名により、社殿の規模が狭小であった丸山神社を改築し、阿波神社と改称して、昭和十八年十月に竣工、同年十一月県議会 は四国唯一の官幣大社に昇格方奏上書を提出、内定されましたが、終戦により日本全国の神社社格の廃止により、現在に至っ ております。
意外な発見。阿波神社の鳥居の傍に土御門天皇の火葬塚が存在。塚というよりも御陵。
土御門天皇
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建久9年1月11日(1198年2月18日)、父後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚。同年3月3日(4月10日)、即位。事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、退位を迫り、1210年弟の順徳天皇に譲位した。京都では、外祖父である源通親が別当として権力を掌握し、鎌倉では、1199年に源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われていた。1221年の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに、自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波国に移された。鎌倉幕府も後鳥羽・順徳両上皇とは違って、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇振りを見せている。1231年10月に出家し、同月崩御。一説には日蓮宗の開祖日蓮は、この土御門天皇の皇胤であると言われている。陵墓・霊廟 京都府長岡京市金ヶ原の金原陵(かねがからのみささぎ)に葬られた。また、徳島県鳴門市には火葬塚がある。
参道。
神門が見える。
神門
拝殿
本殿。祭神は土御門天皇。
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