2015年6月1日月曜日

〇《奥の細道》紀行・奥州路(42) 奥州上街道(一関~岩ヶ崎~岩出山)

〇一関を立った芭蕉と曾良は、奥州上街道をたどって岩出山に向かった。岩出山に伊達政宗は初めての居城を構えたそう。今は宮城県大崎市。この奥州上街道を辿る旅が、今般の旅の最難路だった。道が険しかったわけではない。街道がほぼ無くなっていたのだ。先ずは岩ヶ崎を目指したのだが、そこへ行く道が発見できない。奥州上街道など地元でも既に死語化していた。とりあえず奥州街道(国道4号線)を南下して行ったが、どうしても岩ヶ崎行きの上街道が見付からなかった。地元の人たちに訊き訊きしながら県道4号線に入ったら、どうやら岩ヶ崎に出たらしい。岩ヶ崎からは曲がりなりにも奥州上街道の新道・バイパスを辿って岩出山に着いたらしい。結局不本意な道程は↓地図の赤破線部分だけだった。ボクの走った道は赤実線で示してある。奥州上街道(陸奥上街道)は現在「松山街道」と呼ばれているらしい。
〇現代の奥州上街道・松山街道は、芭蕉と曾良が歩んだ道とその道程は大局的には似ているが具体的には全く違っている。現代の道には往年の痕跡は全くない。全線バイパスを走っているのだ。芭蕉と曾良の痕跡を見出したのは岩出山で国道47号線に合流する手前の天王寺追分に近づいた時だった。この時、バイパスを外しわざわざ旧道を走っていた。
↓標識に「上街道」の文字。遂に上街道の痕跡を見出した。「磯良(いそら)神社(カッパ明神)」のある所。芭蕉と曾良はこの道の上を歩いて通った。
 ↓一つ痕跡を見出すと次々に見出せる。
 ↓決定的な案内標識を発見。右奥の標識・上の赤い部分「奥の細道(上街道)」、下に「松尾芭蕉・一宿の地・岩出山」。左手前の標識・上から「天王寺追分へ」「上街道(天王寺)一里塚へ」。
今たどってここまで来た道が、奥州・陸奥上街道であったことがこれで歴然とした。
 ↓矢印通り今来た道を戻ると「天王寺追分」があり、「上街道天王寺一里塚」があるはず。戻って確認して来よう。
 この地が、芭蕉と曾良が一宿した岩出山。
 ↓天王寺一里塚まで舞い戻った。


↓丘の上、中央やや右寄りに一里塚の標識が立っている。
 ↓「一里塚」
 ↓「上街道」
 ↓天王寺追分所在図
 ↓追分の下方に岩出駅がある。川は江合川。大河。
 ↓天王寺追分。追分は昔の街道の分れ道部分がこう呼ばれることがあった。牛馬を追ってきて分ける所と云うのが語意らしい。
 「天王寺追分」「陸奥上街道」


 ↓「山神塔」 道標の役割も果たしたそう。
 ↓右の石碑「上街道」。左の標識「出羽路から南部をめざすわかれ道・天王寺追分」
 ↓「天王寺追分 昔の街道、出羽街道と上街道の分岐点、大正の初期までは茶屋があり、馬を乗り換えた場所です。俳聖松尾芭蕉と曾良は、小黒ヶ崎と美豆(みず)の小島を尋ねようと、ここを西に折れ一栗(ひとつぐり)の宿まで足を運んだが日が暮れかかったので岩出山に泊ったと曾良日記に記されています。ここにある山神塔は、江戸時代に建てられたもので道標を兼ねています。」
 ↓ボクは先に一里塚に舞い戻り、それからここ天王寺追分に戻ってきた。
〇芭蕉と曾良が辿った道を、ほぼ辿れていたのが嬉しい。

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