《奥の細道》より、
『南部道遥かにみやりて、岩手(いわで)の里に泊る。』
《曾良随行日記》より、
『(五月)十四日 天気吉。一ノ関を立つ。四リ(里)、岩崎(栗原郡也。一ノハザマ(一迫))、藻庭大隈。三リ(里)、真坂(栗原郡也。三ノハザマ(三迫)、此の間ニ二ノハザマ(二迫)有り)。‥‥[真坂]四リ(里)半、岩手山(伊達将監)。やしきモ町モ平地。上ノ山は正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東の方、大川也。玉造川ト云う。岩山也。入口半道程前より右ヘ切レ、一ツ栗ト云う村ニ至ル。小黒埼可ㇾ見トノ義也。二リ(里)余、遠キ所也故、川ニ添い廻りテ、及ㇾ暮岩手山ニ宿ス。‥‥』
〇一関から芭蕉と曾良は奥州上街道を歩き通して岩出山に辿り着いた。山谷(ハザマは谷だろう、迫という字が当てられていた)が起伏する山道だった。岩出山に出たら平地が開け、大川も流れていた。小黒埼(おぐろざき、歌枕)は見るべきだと言われて一つ栗という村まで行ったが、二里もあって遠い所であり、夕暮れが近づいてきたので踵(きびす)を返して玉造川沿いに岩出山宿に戻ってきて一泊した。
↓岩出山市街地図 左上に城山公園・岩出山城址がある。政宗公平和像が建っているそう。注目すべきは、真ん中やや右側に信号交差点があり、その下に「南町商店街」と書かれ、その「商」の字の右に「芭蕉像」と表示されていること。ボクは勇躍して探訪にかかった。
↓あったァ。奥羽山脈の真ん中で、芭蕉翁にお目にかかれようとは。
↑「おくのほそ道と岩出山 ‥‥この時、芭蕉が通ったと思われる古道が、岩出山町真山地区に残っており、現在は「国指定史跡・陸奥上街道」として整備され、いにしえを偲ぶことができます。芭蕉に同行した門人、曾良の日記によると、十四日のうちに小黒ヶ崎、美豆の小島(岩出町と鳴子町の境)を見ようと足を進めましたが、二里(約8km)ほど先であるため、岩出山に戻り宿泊し、翌十五日に訪れたことがわかります。‥‥。なお、芭蕉が宿泊したのは石崎屋という旅籠で、現在の岩出山交番所付近にあったといわれています。」
↓旅籠・石崎屋の跡といわれる敷地に建つ交番所。芭蕉像から小路を挟んで隣の土地。ラッキー!!労せずして芭蕉像と芭蕉一宿の地を探訪できた。
〇さらに小黒ヶ崎・美豆(みず)の小島、尿前の関、封人(ほうじん)の館等を探訪し、出羽国・尾花沢まで行こうと先を急ぐ。快晴続きで事が運ぶこと、運ぶこと。
2015年6月2日火曜日
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