2016年7月16日土曜日

〇柏崎宿の「天屋跡」、鉢崎宿の「俵屋跡」発見。新潟市護国神社境内で「芭蕉堂」発見。村上市三度目の訪問で遂に村上城本丸跡登頂

〇妙高高原池の平「シェーネ」出発が遅れて10:00。鉢崎宿(現在米山町)で見事に「俵屋跡」発見。芭蕉は本当は一つ前の柏崎宿の「天屋(てんや)」に紹介状を示して泊まろうとしたんだがけんもほろろにあしらわれて腹を立て、反省して引き留めようとするのを振り切って意地くそで次の鉢崎宿まで歩いて来て辿り着いたという曰くつきの宿。柏崎宿の「天屋跡」の標識も現地にあるというので探索しに行ったが、こちらは無理な気がしていた。それが奇蹟的に探り当てられた。目印は横にある神社。その神社名を割出した、ネットで。延喜式内社「石井神社」。神社の横の小路に入ると駐車場になっている平地の隅にうずくまるように小さな薄っぺらな石碑があった。普通は絶対目に入らない。ご満悦で今日の仕事はこれで終わったような気になっていたが、新潟の街でも儲けものをした。芭蕉と曾良は新潟宿では親切な大工・源七母子の家に泊めてもらったのだが、その宿が何処にあったかは定かではない。それで新潟に芭蕉が泊まったことを記念する何かをせめて探訪していこうとしたら、新潟護国神社に素敵なモノがあった。「芭蕉堂」。大変ユニークでこれに遭えたのは儲けもの。親切な巫女さんの懇切な指導の賜物。横に「蓑塚」もあった。この護国神社は規模・造り共にすごく立派。多分日本一、二。芭蕉は、新潟に泊まった前日は「築地(ついじ)」に泊まっている。曾良随行日記に明記してある。が、ここも泊まった宿が何処かは分らない。それでせめて築地と云う地名の街に行ってみることに。現・胎内市(旧・中条町)に古い集落があり、その中心交差点名が「築地」。ここが芭蕉の宿泊した地。築地から新潟までは阿賀野川水系の潟・沼・川を結んだ水運・舟を利用している。「あいの風」に恵まれたそう。現代に存在していない(影も形もない)交通路。築地からボクは「乙(きのえ)」行きと表示された県道を辿った。芭蕉と曾良は村上から築地へと道を辿るんだが、途中、乙(きのえ)村を経由して「乙宝寺(おっぽうじ)」を訪ねている。乙宝寺は大寺・古刹。何度でも訪ねる値打ちがある。ボクは今回再訪した。芭蕉が南下したコースをボクは北上して辿ったという訳。そして夕方村上市街に入った。村上を訪れるのは三度目。今回の目的は村上城に登ること。17:45登り口に立った。迷うことなく登り始めた。実は月山八合目からその頂上をボクはきわめることができるか、その試金石の積りが濃い。ボクは狭心症と貧血症。芭蕉は実際その足で月山の頂上に立ち、頂上の藁葺掘立小屋で一夜を明かして尾根伝いに湯殿山の頂上も制覇している。この二つの山の頂上に立たなければ、ボクの《奥の細道紀行》は完成しない。休み休みだが、ボクは村上城の本丸に立った。標高190m。そしてセレナを村上の北にある道の駅・朝日に乗りつけた。明日は山形県に入る。月山・湯殿山登頂問題にどう対処するか――明日のことは明日に任せよう。七重ちゃんがこのくだりを読んだらどう言うだろうか。バカっ!身の程を弁えなさいッ、月山登頂などとんでもない、と叱責されるだろうか。意見を聴いてみたい。

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