2016年7月8日金曜日

〇6/18(土)奥の細道紀行・北国街道「木の芽峠」

〇木の芽峠はどうしても探訪しておかねばならない奥の細道紀行の要所だった。今回挑戦してみた。発見できる自信は六割程だった。木の芽峠のすぐ近くまで林道が拓かれていてセレナで登れた。WCもある。近いことを感じたが、判断を誤って何と標高762mの鉢伏山頂上まで登ってしまった。この坂を登り切ればそこが目指す峠かも、との思いの連続でとうとう山頂に着いてしまった。途中で二度死んだ(道で長々と延びて休息した)。山頂で登り過ぎたことを確認できたので、途中あった心細い横道を行くしかない、その先に木の芽峠がある筈だと思って来た道を下った。急勾配をそっくり返るような姿勢で下った。
↓セレナを駐車し木の芽峠探訪開始
 ↓鉢伏山は中央上端の盛り上がった丸い山。木の芽峠はそこから左下にかなり下った所にある。
 ↓いよいよ木の芽峠発見のため坂道を登り始める
 延々と登る。登った所が峠かも、と思って

 頂上直下にスキー場関連施設がある。
 スキーリフトの終点。ここが鉢伏山頂上付近

 ↓下る
↓旧北陸街道だと見当を付けた横道まで戻った。今庄から来た道だろう。芭蕉もこの道を辿って来ただろう
 ↓旧北陸街道と思しき道を敦賀方面に辿る。
 ↓人家が見えてきた

 ↓とうとう木の芽峠に着いた

 ↓犬が一匹。吠えた。放し飼い
 人家の前に二頭。盛んに吠えた。うち一頭は放し飼い。近寄って来て吠えかかる。ヤバイ。ボクの後ろに回り吠えながらふくらはぎを多分鼻先で押してくる。女性一人では怖くてこの峠を越せまい。山賊が居るようなもの。
 ↓「当家は、観光用の家屋では、ない。文正元年(1466)からの住居として、代々‥生活してます」
  〇前川家。芭蕉もこの峠茶屋で一服したに違いない

↓左端に四頭目が居る。こやつも吠えたが、繋がれている。
 ↑↓「明治天皇木の芽峠御小休所・附御膳水」 宮内庁の制札が傾いている
 ↓立っている地点が本当の峠のてっぺん。向こうは急な下り道、敦賀に通じる。芭蕉もこの峠を越えて敦賀に向けて下って行った。この地点を現代風に分り易く言うと、北陸自動車道・杉津Pの上り線(京都行き)の売店の裏山をひと山越した谷筋
 ↓道元禅師の石碑
 「道元大禅師」
 「道元禅師入越(越前)慕古の碑」
↓「木の芽峠 古来より、木の芽峠は北陸道の要衝として人馬の往還もきわめて頻繁であり、峠を越えて京都に向う人、さらに、都を出て北陸に下向する人々にとって、急坂の石畳の道、茅葺の茶屋の印象は、旅をことのほか忘れがたいものにしたであろうと思われます。建長5年(1253)の夏、永平寺を開かれた道元禅師は、病気療養のため、高弟の孤雲和尚、徹通和尚を伴われて、永平寺を御出発になりました。やがて木の芽峠に至り、禅師は、京への随伴を切望される徹通和尚に、爾後の永平寺の守護の大事を説かれ、涙ながらの訣別をされました。
草の葉にかどでせる身の木部山(このめやま) 雲に路あるここちこそすれ
その折の禅師の万感の思いがこの御詠であります。再び、峠を越えることもなく、また、今生の永別となるやも知れず、峠の背を分けて流れる水の如く、南と北に袂を分けられた師弟の胸中は、まことに感慨無量なるものがあったと思われます。曹洞宗木の芽峠奉賛会」
↓中央「平重盛公の墓」 両脇は「先祖代々の墓」

 〇どうやら峠茶屋の主は、平家の公達の子孫であると主張しているように見える。その矜持があればこそ累代峠の古家を守って来れたか。



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