2016年7月17日日曜日

〇7/17(日)芭蕉が歩いた旧出羽街道を訪ねて半日走り回った。湯殿山本宮に登り御神体を拝む。鶴岡市「善寶寺」に参詣

道の駅・朝日で07:30目覚め、08:00始動。旧出羽街道の葡萄峠を探索。芭蕉と曾良が越えたことは確か。これまで二度の遠征で完敗。村上市(旧朝日村)葡萄地区でやっと旧道の入口を発見し端緒を掴んだ。行くと明神社があり明神岩が背後に迫っていた。近くに「芭蕉が奥の細道で歩んだ道」の標識がある。前回の遠征で北中(芭蕉一泊の宿場)から山中に入り大沢地区で同じ標識に遭遇して大喜びしたが、その時発見した旧出羽街道は石段登りで峠に出る道筋だった。その峠を越すと今日発見したこの明神岩の前に来る。旧出羽街道が繋がった。セレナで通行できる道ではないが、歩いて通行できる旧出羽街道が繋がって出現した。芭蕉と曾良はこの明神岩を必ずや見た。貴重な発見。ボクは芭蕉と曾良がこの岩の前に立っているのを実感できた。探し求めた葡萄峠は繋がった旧出羽街道の線上にある。夢にまで見た葡萄峠――芭蕉と曾良がその脚で越えた峠はボクの掌中に入った。調子が出てボクは北中から小黒川地区に入り旧出羽街道をどこまでも走った。現国道7号線バイパスからは想像もつかない道筋。山中深く小俣と云う地区があった。何とこの地区では旧出羽街道の宿場町時代の集落構成が今も残っているのだ。庄屋を名乗る家があり、各家は家紋と屋号で表示されている。この辺りでは「日本国」という山が崇められている。郵便局の名乗りが「日本国山麓・小俣郵便局」というのだからその真剣度が分る。小俣が宿場町であったことは確かだが、ここから北方・羽前に延びる旧出羽街道は忽然と影が薄くなる。どうやら羽前・鶴岡から越後・村上に抜ける旧出羽街道は小俣までは幾筋かあり、小俣から北中(芭蕉時代は中村)・村上へは一筋道だったと見える。ボクは小俣からさらに山中深くに入り雷峠を越えて日本海岸の鼠の関に出た。ボクの今日得た結論は、温海宿を出た後、芭蕉は海沿いに歌枕・鼠の関に行き、曾良は山中に入り温海温泉に浸かった。そしてそれぞれに時間帯は違ったが小俣宿に辿り着き、あとは同じく旧出羽街道を南下して北中(中村)宿で落ち合った。小俣から北中(中村)までは同じコースを前後して歩いたわけだ。
鼠の関からは海岸線を北上した。そして「三瀬(さんぜ)」海岸で写真を撮った。この地名は奥の細道に登場する。ので前回ボクは三瀬に立ち寄った。までは好かったが写真を撮り忘れた。それで写真を撮りにまた寄ったという訳。
芭蕉は酒田を立って南下し一日歩いて泊まったのは大山宿だった。その大山に前回立寄らなかったので今回探訪した。大山と云う町はあった。鶴岡に近い。かなり大きい。この宿場のどの宿に泊まったかは分っていない。芭蕉の足跡をとにかくその通りに辿ろうとの悲願から実施。
1430、ボクは湯殿山本宮行き有料道路を伝って湯殿山に着いた。大鳥居の前。ここから本宮行小型バスに乗って本宮前まで登った。15分間隔で発着する。本宮には社殿がない。御神体の奇妙な噴泉塔みたいなものが鎮座しているだけ。素足になって御祓いを受けて(御祓い料500)囲いの中に入ると中にそれが鎮座している。綺麗な黄土色でかなり大きく、姿が奇妙でこの世のものとは思えない。その御神体の上に上って下りてくる。そう言えば湯殿山で見聞きしたことは口外してはならないんだと誰かが言ってたなぁ。芭蕉だったか。写真撮影一切禁止。大鳥居まで徒歩で下りて来た。写真撮影禁止措置にはボクは一家言ある。しかし湯殿山では一言もない。目にしたものは文化財ではない。
17:00、鶴岡市の田舎にある「善寶寺」に着いた。七堂伽藍が整備された大寺。禅寺。最近御堂が六つ位揃って「国指定・登録有形文化財」になったそう。
夕方、道の駅・三川(みかわ)に入った。明朝の月山登山に備えている。登頂に挑戦する気持ちは七割ほどあるが、脚の疲労に負け続けていて自信はほとんどないのでどうなることか。

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