2017年3月9日木曜日

〇2017-3-5(日)大津市葛川坊村(かつらがわぼうむら)「明王院(みょうおういん)」

〇湖東・守山市街から琵琶湖大橋を渡って湖西・雄琴に出て、そこから比叡山・比良山系に向って直進すると、山に当たった中腹で途中(とちゅう)という地名の部落に出る。京都大原から北上して鯖街道・朽木谷を若狭国小浜に向って走って来るとこの「途中」に来る。「途中」から右折して雄琴に下りて琵琶湖に出られるのでこの名があるように思う。ボクは「途中」で右折して鯖街道・朽木街道に入ってそれを北上して小浜方面に向かった。この谷筋は、織田信長が越前朝倉攻めをして敦賀金ヶ崎城に至った時、北近江の浅井長政の反逆を知って挟撃を恐れ自軍を置き去りにして真っ先駆けて戦線離脱し京都に逃げたときにボクと逆方向に辿ったルート。琵琶湖に注ぐ安曇川の上流辺りに明王院が在った。この寺院の文化財的価値は計り知れない。
↓明王院石碑。この石碑の左側に明王院が在り、右側に地主(じしゅ)神社がある。
 ↓安曇川に架かる赤い橋
 ↓「明王院は平安時代の始め、相応和尚が開いた修験道場で、天台回峰行の重要な道場です。有名な参籠札や重要文化財の仏像などがあり7月18日夜、伝統行事の太鼓まわしが行われます。また向かい側には明王院の鎮守地主神社があります。」
 石段・石垣・石塀を含む境内地も重要文化財
 〇重文・政所表門。江戸時代初期の建立。石塀も重文


 ↓右手前赤い建物が護摩堂。中央奥に本堂
 〇重文・護摩堂(附・厨子)。宝暦5年(1755)建立

 〇重文・庵室。天保5年(1834)建立。内部は畳敷きで参籠の行者が寝泊りするための建物

 ↓本堂へ
 〇重文・本堂。正徳5年(1715)建立。前身堂の部材が今も一部転用されており、その古材は1100年頃に伐採されたものであることが分っている。
 ↓「息障明王院」

  ↓内陣は真っ暗闇。どうやら一番奥に立派な厨子があり、その前にお前立ちの仏像が立っている。厨子は新旧二つあり、両方とも本堂・附(つけたり)の重文。

 ↓お前立ちは、中央が不動明王立像で両脇に一回り大きな天王像のようなものが立っている。



 ↓厨子の中に御本尊が三体安置されていて、中央が千手観音・左側が不動明王・右側が毘沙門天。三体共に重要文化財。
 ↓太鼓回しの行事。太鼓から飛び降りる行者が写っている。
〇この他に膨大な文書類が重文に指定されている。それらは宗教法人延暦寺が管理している。
〇この後、隣の「地主(じしゅ)神社」を探訪したが、これがまた素晴らしい文化財。全くの想定外の邂逅。

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