2012年5月29日火曜日

〇法隆寺《百済観音》

法隆寺の《百済観音》は不思議な仏像。古記録には全く記載がない。天平時代の「法隆寺流記資財帳」に記載がなく、11世紀後半の「金堂仏像等目録」、鎌倉時代の「聖徳太子伝私記」にも記載がない。漸く江戸時代・元禄11年の「元禄諸堂仏体数量記」に至って「虚空蔵菩薩、百済国より渡来、天竺像也‥‥」の記載が登場する。以後出てくる記述は「虚空蔵菩薩」であって《百済観音》の記載は一切ない。明治時代になって《百済観音》の呼称が登場する。記録上、由緒も名前も定かでない不思議な仏像。
以下の氏名は、撮影者。
土門拳

小川光三



入江幸吉・撮影  《百済観音》が今被っている宝冠、これは明治時代になって発見された。百済観音の頭上に載せてみると実にピッタリする。この宝冠こそ、元来百済観音のものだった。発見された宝冠には阿弥陀如来が化仏として透かし彫りされていた。阿弥陀如来の脇侍は、観音菩薩と勢至菩薩。そこで、それまでこの菩薩像は虚空蔵菩薩とされてきたが、この宝冠を戴いたときから観音菩薩と考えられるようになり、百済から渡来したと「元禄諸堂仏体数量記」に記述されていることから《百済観音》と呼称されるようになった。

小川光三・撮影  《百済観音》の顔立ち・表情は、純和風を逸脱している。仏師は日本人ではなかろう。油絵にする前に既に油絵になっている。



辻本米三郎



小川光三

入江幸吉

同・撮影  きゃしゃな姿で立っているが、圧倒的な存在感を持っている。



同・撮影  《百済観音》の肢体は細くて長い。九頭身の柳腰像。日本において同様の仏像は類例を見ない。孤立孤高の仏像。吾輩には、人体になぞらえた仏像というよりも、神木・材木の形そのものを残しているように見える。九頭身の柳腰像をイメージしたというよりも、神木を崇拝して彫刻していったらたまたまこのような形になったという感じ。

小川光三





辻本米三郎

小川光三・撮影  両手の五指がそれぞれに美しい動きを表現している。

入江幸吉

小川光三

入江幸吉

小川光三

入江幸吉

小川光三

辻本米三郎

小川晴暘・撮影  現在《百済観音》は宝蔵院・中央の「百済観音堂」に単独に安置されている。宝蔵院が出来るまでは、《百済観音》に正式の居場所がなかった。奈良帝室博物館に居たこともあるが、そこから法隆寺に戻ってからは、金堂の片隅に居候然として置かれていた。↓向かって左の仏像が百済観音像。宝蔵院の建設は、《百済観音》の安置場所を作ることも大事な動機となっていた。

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