2014年9月13日土曜日

〇「奥の細道紀行」(29) 黒羽余瀬「修験光明寺跡」《夏山に足駄を拝むかどでかな》

行きつ戻りつして「修験光明寺跡」に到着。
 右側の鬱蒼とした繁みに分け入り丘に登ると、
あった! 探し求めた句碑が。もう夕暮れ近くで画面が暗い。
 芭蕉句碑 《夏山に足駄を拝むかどでかな ばせを》
 ↓「松尾芭蕉は、元禄2年4月9日(陽暦5月27日1689年)に光明寺へ招かれ、昼より夜五つ過ぎ(午後九時過)迄で浄法寺図書宅へ帰った。「おくのほそ道」に「修験光明寺と云う有り、そこにまねかれて、行者堂を拝す
夏山に足駄を拝む首途(かどで)
とある。これは光明寺の行者道に安置されていた役の行者小角(えんのぎょうじゃ・おづぬ)の像を拝し、芭蕉がこれからの長途の安全を祈り、その健脚にあやかろうとして詠んだものであろう。伝えには那須与一宗隆が屋島に出陣する際、山城国伏見の光明山即成院の弥陀仏に武運長久を祈願して、遂に扇の的を射て武名を輝かせることができたという。与一は帰国後文治2年(1186年)余瀬村のこの地に弥陀仏を勧請して、即成山光明寺を建立したという。その後久しく廃絶していたが、永正年間烏山城主那須資実が、近江の大津に住んでいた天台宗の僧無室(元津田八郎五郎)を招聘し、光明寺を再興して修験道に改め、無室は津田源弘と称した。芭蕉が招かれた当時は、第七代津田源光権大僧都で、妻は鹿子畑左内の娘なので翠桃が口添えをしたのであろう。」
 ↓鮮明に写された句碑(黒羽文化協会発行「おくのほそ道」より引用)

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