「神橋(しんきょう)」が大谷(だいや)川に架かっている。この橋には蛇にまつわる伝説がある。この橋の別名は「山管蛇橋(やますげのじゃばし)」。これは、天平神護2年(766年)に勝道上人(しょうどうしょうにん)が二荒山(ふたらさん)(男体山(なんたいさん))で修行をするために訪れたとき大谷川の急流に行く手を阻まれたが神仏に加護を祈ると深沙大王(じんじゃだいおう)が現れ赤青2匹の蛇で両岸をつなぎその背に山管を生やし勝道上人を対岸に渡したという。現在の形になったのは寛永11年(1634年)日光東照宮の大造替の際で、この時に将軍・勅使・行者以外の一般人の往来を禁止したとされている。
「神橋」の近くに「輪王寺」「二荒山神社」「東照宮」の二社一寺への表参道・登り口がある。
日光山は目を瞠るほど水流・水量が多い山。
表参道を登ると「勝道上人」の銅像が立っている。ここから「輪王寺」「二荒山神社」「東照宮」への道が始まる。
勝道 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「勝道(しょうどう)は日光山を開山した、奈良時代から平安時代初期にかけての僧。勝道上人と称されることが多い。下野国(栃木県)の南高岡(現、真岡市)に、下野介・若田高藤の子として生まれる。母は豪族・吉田連氏の娘・明寿。なお、生誕地には現在仏生寺がある。弟子に尊鎮法師(多気山不動尊を創建)がいる。生涯 少年期から山林修行を行い、762年(天平宝字6年)下野薬師寺の如意僧都に師事して得度受戒した。765年(天平神護元年)には出流山満願寺(栃木市)を開創している。782年(延暦元年)日光山(ニコウ山=二荒山、ふたらさん、男体山)の開山を志し入山、四本龍寺(現輪王寺)を建てる。二荒山神社や輪王寺などにつながる日光山繁栄の源を作った。784年(延暦3年)には中禅寺湖中禅寺を開いた。延暦年間(782年-806年)に上野国講師に任じられ、807年(大同2年)の旱魃に際しては日光山で祈雨を修法し、その功により伝灯法師位を授けられた。816年(弘仁7年)4月、日光山山頂に三社権現の社を建立。その翌年、83歳で死去。」
日光市街を走り去り、杉並木街道が途切れながらも延々と命脈を保って街道として存続していることに感銘を受けながら今市も抜けてひたすら宇都宮を目指した。日光街道は宇都宮市街地を貫通して南下していた。古河(こが)・小山(おやま)を通って江戸に至る。僕は北関東自動車道「上三川(かみのかわ)IC」を目指した。ここから東の方水戸を目指す。明朝は水戸の偕楽園を見学する。宿泊地は常磐道に乗り入れて北上して直ぐの「田野PA」。水戸ICをわざわざ通り越した、下に降りて道の駅を探すのはしんどいので。明日は水戸北ICで下りる。
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