前夜、常磐道・水戸ICを北に一つやり過ごして「田野PA」に野宿。早朝水戸北ICで下りて水戸市内を目指した。目的地は「偕楽園」。7時に到着。駐車場管理人の爺さんが入れて呉れた。
「偕楽園」の前に「常盤神社」があった。
常磐神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「常磐神社(ときわじんじゃ)は茨城県水戸市にある神社である。徳川光圀・徳川斉昭を祀る。近代に建てられた新しい神社である。祭神 高譲味道根之命(たかゆずるうましみちね の みこと) -- 徳川光圀(水戸藩2代藩主、義公) 押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたて の みこと) -- 徳川斉昭(水戸藩9代藩主、烈公) 神事の国旗制定祈念祭は、徳川斉昭が日本の国旗である日の丸を定めたことに因むものである。歴史 明治初年、徳川光圀と徳川斉昭の徳を慕う水戸藩士により偕楽園内に祠堂が建てられた。明治6年(1873年)3月に「常磐神社」の社号が、10月にそれぞれの祭神の神号が勅旨により定められた。明治7年(1874年)に現在地に社殿が造営された。明治15年に別格官幣社に列格した。ドラマ水戸黄門でおなじみの葵紋の印籠を模った印籠守を授与しており、雑誌にて掲載され問い合わせが殺到したという。」旧別格官幣社、知らなかった。
博物館が併設されている、その宣伝。
東湖神社。「藤田東湖」が祀られている。
藤田東湖 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「藤田 東湖(ふじた とうこ)は、江戸時代後期に活躍した水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。常陸国東茨城郡水戸(茨城県水戸市)城下の藤田家屋敷に生まれる。文政10年(1827年)に家督を相続し、進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。文政12年(1829年)の水戸藩主継嗣問題に当たっては徳川斉昭派に加わり、同年の斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、天保11年(1840年)には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得るに至った。しかし、弘化元年(1844年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、同年9月には禄を剥奪される。更に同3年(1846年)斉昭が謹慎解除されるとそれまでの責めを受け江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。嘉永3年(1850年)にようやく水戸に戻ることを許され、同5年(1852年)には処分を解かれている。藩政復帰の機会は早く、翌嘉永6年(1853年)ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には側用人に復帰している。安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政の大地震の際、一度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下敷きとなって圧死する。享年50。」
常盤神社境内。
こちらが表参道のよう。
「義烈館」(博物館)所蔵の「日本外史」
いよいよ水戸「偕楽園」へ。
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