日光東照宮 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は栃木県日光市にある神社。江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した東照大権現を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。東国の精神的中心としての歴史は徳川氏の東照宮よりも遥かに早く、遅くとも源義朝による日光山造営までさかのぼりうる。さらに源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた。徳川氏の東照宮造営はこの歴史を巧みに利用したと考えられる。
東照宮の歴史 沿革 元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は駿府(静岡)で死去した。遺骸は遺命により直ちに駿河国の久能山へ葬られた(久能山東照宮)が、翌元和3年に下野国日光へ改葬された。同年4月に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日に奥院廟塔に改葬され、4月17日に遷座祭が行われた。寛永11年(1634年)には、9月に3代将軍徳川家光が日光社参し、寛永13年の21年神忌に向けて社殿の大造営に着手する。正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。家康は遺言中に「遺体は久能山におさめ、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。そして、八州の鎮守となろう」と述べている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、「日本全土の平和の守り神」である。家康は、不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。明治初年の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、一部の施設について東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中のものがある。明治6年に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、昭和60年に神社本庁を離れて単立神社となった。
日光東照宮と陰陽道 日光東照宮は、陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北極星が来るように造られているという。また、その線を真南に行けば江戸へ着くとされ、さらに主要な建物を線で結ぶと北斗七星の配置と寸分違わぬよう設計されているという、そのため陽明門前の写真店屋のある辺りが日本一運気の強い場所と言われている。」
太郎杉と大鳥居
五重塔
拝殿拝殿と本殿本殿と拝殿御仮殿鐘楼
武徳殿
表門・仁王門仁王像・阿形吽形仁王門・内側
三神庫
高野槇
神厩舎出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「日光東照宮を訪ねると様々な建物に多様な動物を見ることができる。これらの動物のほとんどは平和を象徴するものとして描かれている。神厩舎には猿の彫刻を施した8枚の浮彫画面があり、猿が馬を守護する動物だという伝承から用いられている。この8枚で猿の一生が描かれており、ひいては人間の平和な一生の過ごし方を説いたものとなっている。日光の彫像の中で眠り猫に続いて良く知られている「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な3匹の猿はこの神厩舎に造られたものの1枚に過ぎない。なお「見ざる、言わざる、聞かざる」は幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいいという教えである。」
手水舎
中の鳥居
輪蔵
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