2012年1月3日火曜日

1/3(火)、正月三日目

昨日から今まで電波状態の悪い所に居た。ここは福井県・南条SA。久し振りにNetに繋がったので旅報告を。


1/2(月)午後六時過ぎ「道の駅・農匠の郷やくの」に入り込んだ。「やくの」は「夜久野」。電波は通じないがこの先好いことがあるかどうか分らないので今夜はここで泊まる。朝来(あさご)・和田山から走って来て福知山の20km程手前、国道9号線沿い。今日の旅程は、小谷SA午前8時半過ぎ出発。岡山県に入り和気ICで下りて「和気神社」へ。和気町にある。「和気清麻呂」とその姉「広虫」の出身地。旧・県社で大きくない。近在一帯の人達が挙って初詣に来ると見えて人が絶えない。都会風の人はいない。社殿は形の好い拝殿・幣殿・本殿が品良く配置されていて格調が高い。こういう味のある神社にお参りするのもなかなか好い。それから岡山県久米南の「誕生寺」へ。津山市の南方。法然上人の誕生地にある。この地で法然の父母を肇め一族が敵対豪族の夜襲を受けて皆殺しにされた。父は「横領使」で敵対勢力と緊張状態にあった。当時法然は15歳で比叡山で修業中。蓮生坊(出家前・熊谷次郎直実)が法然の命を受けて法然の父母がかつて住んでいた家を寺にしてその菩提を弔った。現代の誕生寺は経済観念のある住職が住持していると見える。この後、津山から中国自動車道に入り福崎(姫路の北)で播但自動車道に乗り換えて北上し但馬国・和田山ICで下りた。天下の名城「竹田城跡」を少しでも拝もうという訳。竹田城は、応仁の乱の一方の旗頭・山名宗全が築いた城。山名宗全は但馬国を本拠地に数カ国の守護大名だった(当時の但馬は日本有数の上国、「但馬の守」は羨望の的)。来てみて意外だったのは城山の中腹まで車で登れたこと。中腹駐車場にセレナを停めたのが午後4時過ぎ。城跡は海抜353mの山頂にある。夕暮れまでに持ち時間は乏しい。が、登山に挑戦してしまった。崖をよじ登る様な急坂、それが登れども登れども頭上に立ち現れる。最後は足が棒になって上がらなくなり手を介添えにして持ち上げる始末。三度ほどへこたれたがその都度「終わりのない一日はない」「終わりのない坂はない」などと念じながら気を取り直した。「終わりのない命はない」状態になりかけたとき、とうとう山頂の石垣城砦群に到達、日が山の端にかかっていた。花屋敷跡から本丸跡へ、二の丸跡は本丸から望見するに留めて、三の丸から北千畳へ、そして大手門から駐車場へ。駐車場に辿り着いたときはすっかり夕闇に覆われていた。信じ難いことだが、生涯そこに立てないと自覚していた竹田城本丸跡に、吾輩は真冬の夕暮れの早さと競うように命懸けで登ってそして立ったのだ。日没の山頂には小雪が舞って劇的だった。豊後竹田の「岡城」と但馬和田山の「竹田城」は天下の山岳名城の双璧。その二つの城跡を遂に探訪した。
1/3(火) 今日は先ず福知山城を探訪し、舞鶴・小浜・敦賀経由で南条SAまで来た。小浜では今度こそ「蘇洞門(そとも)」遊覧船に乗ろうと思ったが、またしてもシケのため欠航。福井県高浜町で若狭で最古の馬頭観音像・重文が祀られているという「馬居寺(まごじ)」に寄った。古い小寺、馬頭観音像は鉄筋コンクリート造りの宝蔵に納まっており住職は不在。若狭路には不思議と馬頭観音像を本尊にする寺が多い。松尾寺・中山寺・馬居寺等。あとはこのまま素直に七尾に直行しようと思う。

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