島原城は美しい城。しかしその美しさは残忍な歴史を秘めている。島原の乱は、この城の築城と無縁ではない。この城の築城者・松倉藩は大和国から四万石で転封されてきた。四万石の分では身に過ぎる城と軍備を持った。そのうえ藩主は歴代(といっても二代だが)性質が残忍酷薄だった。飢饉が続く中、領民に対する租税の取り立ては苛斂誅求を極め、貧窮し食にもありつけぬ領民を築城にこき使った。納税できぬ農民に蓑を着せて火を点ける「蓑踊り」と称する見せしめの刑を科した。みせしめに子女を殺すこともした。幕府におもねてキリシタン弾圧に精励した。島原地獄が現出した。遂に決起した一揆勢は先ずこの島原城に押し寄せた。が、陥落させることができず、原城跡に立て籠もることになった。幕府軍12万の包囲のなか二度の総攻撃を撥ね退けたが、兵糧攻めに切り替えられて88日間で陥落した。
0 件のコメント:
コメントを投稿