天守跡らしき石積み基盤が残っている。
↓本丸最奥に残る金倉跡。
↓本丸・金倉跡から本丸背後の尾根筋を望観。この筋が城塞防禦の最弱点に見えたので探訪。
↓本丸石垣の横の通路を伝って後背部分へ。
本丸背後の尾根筋に廟所・屋敷跡・蔵跡などがある。↓やがて「下原(しもばる)御門」に行き着く。この御門こそ、この城塞が築造された当初の大手門。それが加藤清正公の指図で今見る位置に大手門が移されたという。往時、この御門は尾根筋の狭隘部を扼して堅固な防塞を成していたに違いない。
↓下原御門
三の丸手前の家老屋敷から望見した谷向こうの家老屋敷石垣群。
↓左・西の丸御殿、右・近戸門
↓西の丸御殿へ
西の丸御殿跡
↓西の丸御殿跡。広大
↓「西の丸御殿跡」
↓本丸から谷を越した向かいに位置する家老屋敷跡に来た。この方面に家老屋敷跡が幾つもある。
↓家老屋敷跡の一つが発掘されて屋敷間取りが再現されている。
↓家老屋敷跡から望見した本丸・二の丸・三の丸の石垣群。
↓発掘中の別の家老屋敷跡
↓「近戸門」
左右の石積みに跨って「近戸門」の櫓が組まれていた。
門を出ると下り道が深い谷底に落ちるように続く。
↓近戸門を下って見た西の丸石垣。この方面も難攻不落。
薩摩・島津家が九州制覇の勢いだったとき、18歳の岡城主・志賀親次は主君・大友義統に従い豊臣秀吉に与して島津の大軍を引き受けて戦い岡城を守り切った。その戦ぶりに対し志賀親次は秀吉から感状を受けたが、敵・島津侍からもその武者振りを称賛された。しかし文禄2年(1593)に大友義統が領地没収された際、志賀親次も改易された。その後岡城に封じられたのは播磨三木城主中川秀成で、文禄3年(1594)に入部した。中川秀成は中川清秀(秀吉方の猛将で賤ヶ岳の合戦で勝家の甥・佐久間盛政の奇襲を受けて壮烈な戦死を遂げた)の嫡男。知行は7万石。中川秀成は旧態然の城を近世城郭風に改め、慶長元年(1596)に本丸・二の丸・三の丸と大手門、近戸口、下原門を完成させた。寛文4年(1664)3代藩主久清によって西の丸が普請され、最初は隠居後の居住地として使われたが、元禄2年(1689)以降は藩の公式行事が行われるようになり、藩主居住地・藩政執務所としても使われるようになった。江戸後期には西の丸が事実上の藩政中心地となっていたよう。一番遅くに完成したのが廟所で天明4年(1784)の完成。豊後竹田七万石の居城としては分不相応に大きく立派な城、というのが吾輩の感想。明治維新後、廃城令により瞬く間に山上全部の建造物が取り壊されて石垣のみの荒城となった。いつしか山上は茫々たる草木に覆われ、戦後公園としての整備に着手されるまでは市民も足を踏み入れられない有様だったそう。
次の記事は、 竹田山中から延岡海岸に出る途中、山国・織方町で「原尻の滝」に行き逢ったこと。
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