2013年10月28日月曜日

〇10/27(日)上越市高田「浄興寺」。真宗浄興寺派・本山。重文・本堂を探訪。

〇妙高高原池の平の宿で朝食を済ませたのが07:00。雨降り。戸隠方面は、どんより重い雨雲に覆われている。これでは行っても仕様がないので時間を稼いで様子を見るために・上越高田の「浄興寺」の重文・本堂を先ず拝観しに行くことに。高田まで北上すると、雨が止み・青空が幾分見えてくる。希望が湧いた。
↓高田市街地の寺町界隈図。63箇寺も固まっているそう。徳川忠輝が高田城を築くときにまとめたそう。
 ↓浄興寺・山門。鉄筋コンクリート造。
 ↓山門を潜ると、奥に重文・本堂が見える。参道両側に、塔頭寺院が三箇寺ずつ並んでいる。
 ↓右側に並んでいる三箇寺。左の寺など鉄筋コンクリート造のビルの様な形で・とても寺院には見えない。寺町にはこの様な寺院らしからざる寺(民家の様な寺)があちこちにある。
 ↓重文・本堂。大きい。平成の大修復を終えた。中をよく観察すると、接ぎ木や埋め木が一杯してある。できるだけ原材料・原型を維持する努力をしている。であればこそ・重文指定もなされた。
 ↓聖徳太子堂。中に親鸞が刻んだ聖徳太子像が安置されているそう。昔はこの像が本尊だったそう。

 ↓経蔵
 ↓本堂

 
 ↓左・本堂、右・拝堂。拝堂は、親鸞聖人のお廟を拝するお堂。
 ↓拝堂
↓親鸞聖人・お廟


↓お廟の前から見た本堂・側面
↓宝物殿の前から見た本堂。
↓宝物殿。県・市の重文が一杯詰まっている。
↓重文・本堂に別れを告げる。

〇高田では晴れてきたので、希望を胸に戸隠に向かった。が、妙高高原に戻った時点で雨。山は見えない。失意のうちに黒姫高原を経過して戸隠の山中に入っていくと、どうしたことか・雨が上がり空が明るくなった。戸隠スキー場でシャトルバスに乗り換え・鏡池に入った。そして紅葉の風景を満喫したのは前号で報告の通り(^_^)v
以下、Wikiより。
〇浄興寺(じょうこうじ)は、新潟県上越市にある真宗浄興寺派本山の寺院。開山は浄土真宗の開祖親鸞。正式な寺号は浄土真宗興行寺(じょうどしんしゅうこうぎょうじ)という。これをつづめて親鸞が「浄興寺」と呼んだという。
最盛期には越後・信濃・出羽の三国に約90か寺の末寺を従えた。真宗大谷派の別格寺院であったが昭和27年(1952年)に真宗浄興寺派として独立した。
創建 建保2年(1214年)、親鸞は常陸笠間郡稲田郷(現在の茨城県笠間市)の領主、宇都宮瀬綱らの招きに応じて同地に稲田草庵を開いた。これが浄興寺の草創とされる。元仁元年(1224年)、『教行信証』を完成させた親鸞は浄土真宗の立宗を喜び、稲田草庵の寺号を歓喜踊躍山(かんぎゆやくざん)浄土真宗興行寺と改めた。嘉禎元年(1235年)、親鸞は京に戻るにあたって弟子の善性に仏法二十一箇条の掟と浄興寺の山額を与え、住職を譲る。弘長2年(1262年)、親鸞が死去すると、遺言により頂骨と遺品が善性に託され、浄興寺に納められた。
焼失と移転 以後の浄興寺は度重なる火災により各地を転々とした後、上杉謙信の庇護により信濃別府(現在の長野県須坂市)に移った。永禄10年(1567年)に上杉謙信の招きにより越後春日山(現在の新潟県上越市)に移る。
本願寺との関係 文明11年(1479年)、本願寺8世蓮如が浄興寺を参詣した。文禄元年(1592年)には浄興寺の親鸞の頂骨が本願寺(現在の西本願寺)に分骨された。慶長4年(1599年)、本願寺の東西分派に際して東本願寺に与した。東本願寺から「同格一門」の待遇を受け、後に「中本山」の格式を認められる。万治3年(1660年)には親鸞の頂骨、本願寺3世覚如以下七代の門主の遺骨を東本願寺に分骨している。享保7年(1722年)以降、高田掛所(現在の真宗大谷派高田別院)設置問題を機に東本願寺との対立が表面化する。享保年間末には「同格一門」の待遇を剥奪され、19世住職一周は掛所設置反対を理由に蟄居を命ぜられた。元文3年(1738年)、20世住職真観は地位回復を願い出るが拒絶され、本願寺白書院にて抗議の自決を遂げる。この後、一時衰退するが高田藩主榊原家の仲介により東本願寺と和睦し復興を遂げる。
近代以降
明治9年(1876年)、真宗四派による「宗規綱領」によって「中本山」の格式を否定される。
明治13年(1880年)、新潟県令に別派独立の請願を提出する。以後、独立運動が継続される。
明治21年(1888年)、親鸞の頂骨と歴代本願寺門主の遺骨を納める本廟を創建する。
昭和27年(1952年)、宗教法人法の施行により東本願寺からの独立が達成される。
平成元年(1989年)92日、本堂が国の重要文化財に指定される。
平成15年(2003年)、本堂保存修復工事(平成大修理)完了。
本尊 本尊として室町時代中期の作とされる来迎形の木造阿弥陀如来立像を安置する。脇持は置かないが、親鸞の真筆とされる九字名号、六字名号を脇掛とする。寺伝によると、当初の本尊は稲田草庵の太子堂にまつられていた親鸞自作の聖徳太子像であったという。現在、浄興寺の太子堂にまつられている像がそれで、14世了性の代に本尊を阿弥陀如来に改めたという。
重要文化財(国指定)
本堂 - 延宝7年(1679年)頃建立。入母屋造杮(こけら)葺き。間口28.2メートル、奥行27.8メートルの大規模仏堂で、新潟県を代表する近世仏教建築である。

0 件のコメント:

コメントを投稿