2014年5月26日月曜日

〇《吉野宮》に到達。大海人皇子が壬申の乱の遠征に出たコースを関ヶ原まで辿って帰って来た。

吉野宮はなかなか発見できなかった。現地には何も痕跡が残っていないのだから無理もない。足で歩き回って痕跡らしきものを辿った。千本桜や南朝の宮跡で有名な吉野山とは、全く別のモノ。吉野山から遠くはないが。吉野川(紀の川となる)沿いの平地にある。奈良からは高取山などの大山塊を峠越えしなければ入れない。朝早くから動き出した。吉野宮の故地を見定めてからは、大海人皇子がウノノサララ皇女と共に壬申の乱の戦地に旅立ったコースを進んだ。先ず吉野宮からいきなり大山塊を峠越えして大宇陀に出る。ボクはトンネルを潜ったから楽だったが、大昔はこの行程が一番きつかったろう。この峠越えのあとは、大体谷筋を辿って大宇陀・榛原(はいばら、現宇陀市)、伊賀国名張(当時は隠という地名だったそう、コモリと読むか。現名張市)・上野(現伊賀市)と進むから比較的楽だったろう。上野から鈴鹿峠を越えて伊勢国に入るが、入ってしまったら安全圏。伊勢から尾張・三河・美濃は大海人皇子の勢力圏だった。鈴鹿・四日市・桑名と進む。桑名から伊勢街道を北上し養老山地の裾を縫って不破の関・関ヶ原に入る。決戦場は近江国に入った蒲生の原、瀬田などだった。
大宇陀の手前に「大蔵寺」という古刹がある。重要文化財の本堂と塔があり、写真で見た石垣は素晴らしかった。それでボクは二年ほど前に訪れた。そのときはセレナを駆って山寺に行こうとしたが、車では無理そうだったので断念した。今回は車を街道沿いに捨てて徒歩で向かった。途中で山道が二股に分かれどっちを選べばよいか判断がつかない。近くの畑で腰を下ろして談笑している老婆が二人いたので訊いた。答えは「行けまへんでぇ~」「途中でバリケードしてある」「行くと叱られるわ」「変わった住職さんでねぇ」。例の宗教施設神聖論で凝り固まった原理主義者らしい。文化財の側面が眼中にない。そのくせ、文化財保存のために必要な経費は、国・県から三分の一ずつチャッカリ戴いているだろうに。補助金は税金なのだ。単なる観光客を敵視するのはまだ許せる。しかし、文化財鑑賞者を排斥するのは止めろォ<`ヘ´>補助金を返上してからにして欲しい、ブンブン<`ヘ´>。宇陀市で、宇陀水分(みくまり)神社の国宝本殿四棟を拝んで行こうと思っていたのに走っているうちに忘れた。残念。室生寺にも寄ろうと思っていたが、こちらは実現。金堂の国宝「十一面観音立像」と重要文化財・地蔵観音が美術院に修理に出されて不在。名張市には重要文化財がほとんどない。しかし上野・伊賀市には五、六件ある。いつか週末を割いて伊賀上野の文化財を探訪しよう。南木曽・大桑村の重要文化財探訪も日を改めて実行しよう。

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