2018年6月16日土曜日

〇6-16(土)白山を廻る三大ロックフィル式ダム、白山登頂修験道の三大聖地を廻る旅に出た。手取ダム、白山比咩神社。白峰村林西寺で白山下山仏達に会う。勝山市岩屋観音の大杉と再会。

蟹薬師の記事で仏像だけをズラリと並べたら途端に読者数が激減した。この頃神社仏閣仏像探訪の旅から方向転換して、四方八方興味ある方向を選んで次から次と興味を繋ぎながら旅をするという趣向に転じたら忽ち読者数が激増した。それが仏像だけを並べてみたら激減。そういうもんなんだなぁ。仏像なんか山と見せられても辛気臭いだけだ。
この週末、やっぱり旅に出ることにした。が、行く方向が定まらなかった。出掛けに閃いたのは日本三大ロックフィルダムの二つ目として手取ダムに行こうということ。すると次々と行く先が決まっていった。三つ目として去年行った九頭竜ダムに行く。これで三大ロックフィルダムを一週間で廻ったことになる。これら三つに共通するのはいずれも白山の雪水を水源とする川を堰き止めていること。庄川・手取川・九頭竜川。ついでにかつて白山を目指した修験者達の三大拠点も一気に廻ることにした。加賀登山口の白山比咩神社・越前口(勝山)の平泉寺白山神社・飛騨口(白鳥)の白山神社長滝寺の三つ。いずれも往時は修験道の聖地だった。さらに行き先の近くに存在する巨大杉に会いに行くことに。勝山市・岩屋観音の大杉、郡上市石徹白(いとしろ)の大杉。初めて見る人は驚嘆する巨大杉。週末にこうして廻れば旅行目的の関連性がありありで旅行に物語性が出てきて情趣があるんじゃないか。
ということで先ず白山市鶴来を目指した。鶴来に近づいた時、かねてボクは「つるぎ」の地名は「剣神社」に由来するんじゃないかと思っていたので、先ず「剣神社」を訪ねて確かめることに。初訪。
この神社、今は「金釼(きんけん)神社」と称しているが、往時は「釼(剣)神社」だった。由来書に鶴来町の「つるぎ」は当社の往時の名に由来すると明記してあった。その通りだろうとボクは思う。ここの釼神社は、越前国二宮の釼神社の分社だろう。越前釼神社の境内摂社に「織田神社」がある。織田信長の祖先は越前から尾張に出たという説の根拠となる神社。
次に近くの白山比咩神社へ。

ボクの関心は、白山比咩神社は今は神仏習合なんぞはどの世界の話か然として神道に純粋化して運営されているように見えるが、江戸時代まではそうではなかろう、白山山頂には阿弥陀仏や観音様が祀られていたはずだ、神仏習合していなかったはずがないというもの。由来書を読むと、白山比咩神社は元は電鉄の加賀一の宮駅の近くの森の中にあったという。その当時境内には堂塔伽藍が建ち並んでいたという。正に神仏習合の姿だ。それが応仁の乱の頃にすべて焼失したので現在地(白山三ノ宮が鎮座していた地だそう)に移転した。移転しても明治維新までは神仏習合の形態は維持されていたはずだ。釼神社の由来書に明記してあった。当社にはかつて堂塔伽藍が整備され三重塔も建っていた。僧兵もいたと。白山比咩神社には白山奥宮遥拝所があり「白山奥宮」まで境内に設えてある。

この奥宮、神殿はなく白山山頂にいます神々の憑代となる大岩が三つ並んでいる。中央の最も大きく高い岩が御前峯、向かって左の二番目に高い岩が大汝峯、右のやや低い岩が別山を象徴する。
いよいよ手取ダムに向かう。ところが白山の懐深くに入りこみダムに辿り着いてみると、何とそれはコンクリート製ではないか。

それは大日ダムだった。大日川の谷に入りこんでいた。とんだヘマ。鳥越村の白山別宮神社まで引き返し手取川の谷に入り直した。そして今度こそロックフィル式ダムに到達。
 御母衣ダムと比べるとロックフィルの表面が緻密で美しい。まるで金沢城の石垣のよう。

駐車場が用意され公園もあった。しかしダムの堰堤の上には立入禁止で行けなかった。ボクの娘達が幼少の頃、家族で手取ダムを訪れたがその時は堰堤の上で娘達を遊ばせ写真を撮った。
勝山に抜けるべく国道157号線を走っていたら白峰村に着いた。案内標示によると国指定「伝統的建造物群保存地区」になったそう。で、ハンドルを左に切って国道から反れて白峰村の街区に入った。伝統的建造物がそれほど多くあるようには見えなかった。



が、素晴らしい掘出し物があった。「林西寺」という浄土真宗大谷派の寺院。
ここに「下山仏」が8体安置されていた。下山とは白山山頂から下りてきたのだ。明治初頭の神仏分離令の下、白山山頂に祀られていた仏像達が廃棄破壊されようとしていたのを林西寺の上人が護持して白峰村まで下ろしてきてそうして寺に安置してきたのだ。寺では立派な観音堂を建てて安置してある。白山御前峯・大汝峯・別山に祀られていた三尊を中心に8体の鋳造仏像が観音堂に祀られている。

その中に小さくまた欠損部分が目立つにもかかわらず重要文化財に指定された十一面観音像(平安末期か鎌倉時代作)も混じっていたのは僥倖だったというほかない。好い物語を聞き、尊い仏像達を拝観できた。ボクも僥倖に巡り逢った。明治維新の神仏分離の暴挙までは確かに白山三峰の神々は本地垂迹(ほんぢすいじゃく)した神仏混淆の仏神だった。その表れた姿は観世音菩薩・阿弥陀如来等の仏様だった。明治維新までは白山比咩神社も白山奥宮を遥拝する時、神仏習合した仏神を崇めてきたのだ。このことを、林西寺観音堂の下山仏達が明かしている。
漸く県境を越えて勝山側に下りた。午後5時近かった。今日のうちにこなしておくべきこととして勝山郊外の小さな谷間の奥にある「岩屋観音」に行きそこで驚異の大杉と対面を果たしておくことに絞った。大杉は十年一日の如くそこにあった。
 これが一本の杉なのだ。信じ難いだろうが。
この杉に会うと何か生命力を与えられる。
予定していた平泉寺白山神社の一面緑の苔で覆われた境内を歩くことは明朝に回す。この苔の境内の緑の美しさを司馬遼太郎は京都の苔寺も足元に及ばないと評した。
新しい道の駅案内誌で勝山市と永平寺町の境目に「道の駅・禅の里」が開設されていることを知りさっそくそこに駆けつけた。温泉銭湯がある。居心地が悪くないので今夜はここで泊まることに。

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